2024年7月4日木曜日

たまには役に立つ講演会もあるんだな~

ある製薬企業のある薬に関する説明会に呼ばれてあるホテルまで行ってきました。

今の時代、学会も含めてオンラインというのが殆どなんですが、コロナ以降次第に人が集まるミーティングも増えてまいりました。今回の会合はT医療センターとA医科大学の先生の講演でしたが、その薬の知識に限らずその薬が目指す治療の周辺知識が沢山開陳されて私には大変に勉強になりました。

何で私なんかが呼ばれたんだろうとは思ったのですが、タクチケくれてタダ飯食いながら勉強できるのなら、まあ良いかって感じです。おまけにレクチャーしてくださった先生のスライド直接送ってくださる約束も取り付けましたので。

さて、その講義と討論会が終わったのは丁度9時ごろ。この時間を有効に使わない手はありません!w

帰りのタクチケを使って寄ったのは何時もの覚王山の隠れ家。店に入ると、数名が居るだけで私の狙い通りでした。ところが!カウンター席の端っこにどこかで見たような顔の御仁が。数か月ぶりですが、あの沖縄話で盛り上がった素性不明のNさんではありませんか。

思わず数か月ぶりの再会を喜び、カウンターの近く同士へ座り直し。帰り際で既にお金を出していたNさんでしたがもう一杯ビールをとなりましたので、そこは私が奢らせて頂きました。

いろいろと話をするうちにまたいろいろと盛り上がりましたが、一時間ほどでお別れ。私自身は店のマスターとその奥さんと三人でお店に来る人間達の色々な世代ごとの変遷などを話し合い盛り上がり。この酒呑みの為の隠れ場に、イヤホン着けてスマホを見ながらカウンターでスパゲティだけ食って帰っていくのだとか。しかも一言も喋らずに…。こんな客にマスターはあきれ顔で、時代が変わったんですかねと嘆いていました。

更にはこの後、奥様から今後のメニュー表の在り方や一工夫の相談などをされました。何故だかは判りませんが、その隠れ家はやはり癖のある人間が集まってくる傾向というのがあるようで、変わったものを受け容れるのは構わないけれど、あんまりそういう人達というのはお金を落とす行動とは無関係の人が多い感じの話でした。来年の春にはもう一度リノベして新規巻きなおしのイベントを開くんだそうです。商売も更に上手く行くと良いのですが、人が増えすぎるのはなんか嫌だな…。矛盾してるけど。

話の中で取り敢えず私としては自分のアイデアを幾つか出させて頂いて話は11時半過ぎ位まで続きました。お金はキリの良い払い方をして終電ひとつ前の地下鉄に飛び乗り藤が丘に着いた後、子供たちの為にミスドでドーナツを詰め込んで家に帰りつきました。

2024年7月3日水曜日

悲惨極まりないアメリカ大統領選

アメリカに住んでいる友人とLINEでやり取りをしました。

この秋に再び日本に一時帰国する際にまた名古屋に出て来るので飲みましょうという話。要するに要点はそれだけなのですが、その中でちょこっと付け加えたのは次期アメリカ大統領選の悲惨な候補者選びの事。

今の時点で普通に考えて行われている悲惨な対決はまさに何時もここでいつも書いているような犬のウンコと猫のウンコのどちらかを選べというレベルの闘い。
 
上の討論を見てもただ一つだけ言えるのは、賞味期限切れとペテン師の叩き合いという感想のみ。orz

民主党支持者の多くが民主党に勝たせたいとは思っても少なくともこの爺さんでは拙いでしょ?と思うのは正直正直で正しい反応というか判断だと思います。

賞味期限は切れているけど消費起源まではいって無いんじゃないかな?という希望を持ちたい所なんですが、冒頭の掠れ声の大統領の演説開始の部分からしてアカン!と思わせるのに十分なネガティブインパクトがあります。

正直な所、トランプが優れているというようなものでは無くてこれはバイデン自身のオウンゴール。対立候補に私の娘が出ていても勝ったんではないかなというよ言うれべるの酷いものだと私は感じてしまったのですが、現地在住の人間にとってはどうだったのでしょうか。まあ、感想は言わずもがなという気もしますが…。

元よりBIDEN贔屓の筈のNYT自身が彼に退場勧告を下したことで翌日は蜂の巣をつついたような状況にはなりましたが、この判断は正しいと思います。やはり人間も何歳まででも働けるとは言っても、今回の様に国家の運営を任せるという超高度なレベルに限らず、それに相応しい判断力と体力、知識を持った人間がその任に当たらねばなりません。

その「適任」判断自体が出来なくなった時点でいわゆる「耄碌した」という本人にとっては認めたくない状況が到来しているのだと思います。いわゆる老醜という奴でしょうか…。

今度の大統領選。投票という意味では全く無関係の日本在住の日本人たる私がアメリカの投票権のある人達に「まことに気の毒」という言葉を送らざること無しとしか言えません。


2024年7月2日火曜日

スマホを落とすとヤバい事になりますヨ!

ある病院の訪問診療のバイトで、車に同乗していた新米の看護師さんがやらかしてしまいました。

何を?という事ですが、病院で連絡用に皆で共用しているスマホの一台を訪問先かどこかで落としてしまったのです。

一軒目が終了し、二軒目に移動。そして三軒目へ移動という時に車内に居た入職間もない看護師さんが「スマホを無くしたかもしれません!」と声をあげました。すわ一大事~と私は感じたのですが、無くしたと思われる御本人は意外と落ち着いている感じでこっちがちょっと戸惑いました。

確かに、スマホを落としてもiPhoneでは探すことが出来ますし、通常拾った人が居たとしてもそれを持って移動している限りはiPhoneの数の暴力で、最終移動地点というのはかなり正確なポジションを示した状態でマップ上に表示されますから、電源を入れている限り逃げるという事は余り出来ないのですが。

それでも重大なのは、このスマホには病院の指揮所と看護師さん達の長い長いテキストの遣り取りの記録や大勢の患者さん達の病変部位の全体写真とその拡大写真等が溜め込まれているのです。それが社会に流出したらそれこそ大変な事になります。病院の信用が棄損され、場合によっては患者さん達の画像付きの疾患情報がネット上にばら撒かれるリスクも幾らでもあり得るのですから実は大変に恐ろしい事態なのです。

さあ、ここからが大変。先ずは車の中を探して、鞄の中を探して、少なくともどこまではそのスマホを見ていたかを思い出して貰いながらの時間軸の巻き戻しが始まりました。結局最初の家と二軒目の家にも謝罪の電話を入れながら再度お家を探させて頂き、電話を鳴らすもどこでも鳴らず。

もう一度、病院の司令塔に電話して位置情報を確認してもらうと、どうやら二軒目の家の前で最終的な位置情報が消えた形跡があるとのこと。しかし、この二軒目の家にはありませんでしたので、どこへ消えたのか…。

そうして一時間ちょっとが経過した時に指令塔から電話が入りました。曰く「拾った方が今近所でそのままスマホを持って下さっている!」とのこと。その方の電話番号を書き取り、直ぐに電話するとなんとその地図情報のドットから数メートル離れただけの家の方で、二軒目の家の裏手に住まわれているお方でした。

お電話を差し上げ、合流地点でお会いしてスマホを取り戻した時には「は~、良い人に拾われてて良かった~」と心の声が出そうになるほど嬉しかったのですが、無くした御本人はその時点でも反応が薄い感じ。orz

結局、サーチに一時間半もかかってしまったのですが、それでも見つかって何よりでした!

学校の先生が生徒の成績表の入ったUSBを落としたり盗まれたりというような話を時々ニュースで聞きますが、公的なレベルで使用しているスマホなんぞを落とすと場合によっては大変な事になるという事を身をもって体感した一日でした。

皆様も6桁のパスワード・ロックやサーチを何時でも出来るようなセットアップをお忘れなきように!


2024年7月1日月曜日

問題を分けて考える事の大切さ

この歳になっていろいろと学び直すことが沢山あります。

やっぱり偉大な先人の遺した言葉というのは遺っただけの価値がある言葉ばかりです。時間があれば「何か」をしなければ気が済まない貧乏性の典型が私ですが、本を読む事もその一つ。

実生活の中でその言葉を実感する瞬間を見出そうとするのですが、頭が悪い所為で事実と明言の擦り合わせの瞬間を実感する事はなかなか無いのが正直なところです。まあ、こんなのが凡夫の凡夫たる所以なんですが。

そんな言葉の中で最近一番インパクトのあったのはデカルトの「困難なことはすべて、扱うことができ、解決が必要な部分へと分割せよ」という有名な言葉。人間は考える葦とか、我思うゆえに我あり等ということばで高校の授業では有名なおじさんですが、実際は数学の世界の方でも大変に有名な近代合理主義の始祖と呼べる人物。合理的な思考を推論の積み重ねによって行うという方法において、上のように問題は理解できる大きさに分割して考えるという言葉は日常生活でも大変に有用かつ重みをもって私自身に迫ってきます。

日常の己の生活において解決すべき問題の事を考える度に、殆どの場合において実際に自分がやらかしてしまっている事は、あたかも奇麗な解決策を見出したかのように思えてもその中身をもう一度考えてみると、その命題が内在する二つ以上の問題をあたかも強く連関した事象として解決しようとしているというもの。

良く考えると、それぞれの問題って従属事象じゃなくて独立事象だよね?…ということが多い事に気づいて臍を噛むこと毎度です。

そう言う命題を当然の様に分解して考え、その上で統合して問題を解決できるというような人を「目から鼻へ抜ける」というような表現で呼ぶのでしょうが、己には本当に程遠いこと甚だし!です。w

それでも、このデカルトの言葉をことある毎に反芻するのは有用な事で、何か大小の問題に対応をする度に、解決策を探る方法論の第一歩としてこの400年前の偉大な思想家の言葉の断片が私に刺さるのでした。

「遠くを見つめる手段として巨人の肩に乗る」にはやはり先人の本を読むのが早いなと今更感じるバカなおじさんでした。

しかし、超ド級のオッサン顔に見えるデカルトも亡くなったのは53歳。老けてるなって感じました。まさに余談ですが。