2024年7月23日火曜日

記事の内容を批判的に検証しながら読む能力

大人になって良くわかったことは新聞やテレビの言っている事は別に正しくも何ともないという事でした。勿論、社会の木鐸なんて言うのは真っ赤な嘘。

これはシンプルなことに見えますけど、私自身が長い年月をかけて痛い目に遭い続けて理解させられたことは「一つの真実に対する万華鏡のようにバリエーションに富んだ、多様な濃度勾配を持つ嘘と事実の綯交ぜになった雑文」を人に読ませることで、タイトルもしくは文章の尻の部分に売文屋が思い込ませたい文章を挿入しておくというものでしょう。だから、ナイーヴな少年少女に新聞を読ませて人間形成を~なんて考えている親が居れば、それはもう親としての…という以前の愚かな行為以外の何物でも無いと思います。

前にも書いたと思うんですが、新聞やテレビで正しいのは新聞の名前やテレビの番組名と日付くらいです。コレホント。w

文章を読ませたいときにはセンセーショナルな文章の一部を書いて結論を書いておけば人は読んでみたくなるもの。という訳で、この手の文章でタイトル付けをしているような記事は強い意志をもって「そもそも読まない」という癖を受けるようにしました。

誘惑に負けて何百回も読まされた挙句その殆どは良くても精々がところ竜頭蛇尾、そして残りの殆どは期待して読んだ己の愚かさを呪い・後悔するだけの時間しか与えてくれなかったものだからです。

特にネットの時代では短文を読み継がせる為に、思わせぶりな結論は本当に最後まで読ませず、その間に邪魔でしかない糞広告を無限に織り込んでくるようなものばかり。特に酷いのは「XXをしたYYの末路」というような思わせぶりシリーズ。そして「XXに起きた驚きの結末とは!」とかいうようなものもアレルギーレベルで大嫌いです。私の場合、今ではこのようなタイトルをつけて出してくるメディアはそもそもそれ以降読まなくなりますけどね。

さて、基本的に私自身も自分のブログを自分の生活の記録として書いている時には最初にタイトルさえ思いつけばスラスラ内容は書けるものが殆どなんですが、書いてみた後で「あれ?タイトルとズレとる」と思えばサッとタイトルを置き換えます。それでもやっぱり違和感あるな~と思えばもう一回変えてみたり。

わき道にそれた話ではありますが、誰も読まないと知っていても、日記としてのブログを自分が何年か経って読み返したときにそのタイトルからある程度中身を推測できるようなものにしておこうとは意識しているのです。しかし、10年位前のもののタイトルを読んでみたときに「あれ、これ何の事を書いてるんだろう?」という文章が意外と沢山あるのは事実なんですよね。そういったものは殆どが時事ネタのパターンなんですが、やっぱタイトルから中身を容易に推測できるような優れたタイトル付けというのは難しいもんだと感じる日々です。結局今日のタイトルも三回も書き換えてやっぱりしっくりこないものになってしまってます。ホントに笑っちゃうほど無能。

とは言え、タイトルを慎重に考えなければならないような大切な文章なんちゅうのは私の場合どこにも無いので、まあ己の脳内的な小問題という以外は取り立てて深刻な問題でも無いとは思うのですが!w

私の尊敬するバーナード・ショウの遺した一文に以下のような文章があります。
間違った知識には注意せよ。それは無知よりも危険である。
私はこの警句に自信をもって「俺は違う」ととてもとても言えません。残念ですが。

ああ、今日の文章もまた冴えんな~!

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