2026年9月8日火曜日

歴史に残る大雨の日となりました

とんでもない一日となった名古屋でした。

一日の仕事が終わりに近づいてきた時にナース・ステーションにいるみんなのスマホから一斉に警報音が鳴り響きました。見ると警報の中身は高齢者の避難開始等と言う禍々しいもの。

雨雲の様子を示すレーダー画像も、物凄い厚さの雲が見えから名古屋市のほうにかけて長々とかつ真っ赤に線状になってカバーしているのを示していました。そこに夜勤の看護師さん達がずぶ濡れになって登場し一言「ヤバい雨です」と言葉を発していました。

その時点で既に駐車場は大きく冠水し、15センチ程度の深さの水に覆われている事が窓から眺めていて判りました。ほとんどすべての車が徐行しているのが病院の敷地内だけでも良く理解できます。

さて、Google Mapを見てみると、あちこちで真っ赤なlineが描かれているだけでなく、一部は既に黒くなっていました。恐らく冠水した車が前にいけない感じでトラップされているのだろうと推測していたのですが、それは後で見たニュースで正しかったことが判りました。後で聞いたところではこの日に千種や北区の周辺で仕事をしていた人達は車が動かずに往生したそうで、帰院予定を二時間もオーバーしてほうほうの体で訪問診療から戻ってきたとの事。そして戻って来てからも家に帰りつくまでにこれまた2時間近くかかって帰宅しボロボロに疲れ切ったとの事でした。

ニュースでは200台程度の車が水の為に冠水して動けなくなり、河川はあちこちで氾濫。地下鉄は5時間程度ストップした上に市バスは全面通行止めになってしまったようでした。

しかし、それでも20年に亘る名古屋の大雨対策としての冠水用の地下神殿の建設のおかげで名駅周辺は冠水して車が動かなくなるような事もなく、十分に機能したようです。この地下神殿とそれに繋がった貯留用の用水は何と小学校の25メートル・プール400杯分の貯水能力があるのだとか!

東海豪雨を上回る時間当たり降水量(時間100ミリ越え)だったにもかかわらず、こうやって被害の抑制に効果があったのはきちんと備えを行っていたからだという事でしょう。

天災は忘れたころにやってくると常に言いますが、地震も同じように備えが必要ですよね。

娘はあるレストランでバイトを淡々とこなしていたようですが、地下鉄が10時半には動き出してくれたおかげで兎に角、特に大きな問題もなく家には戻ってこれたようです。しかし、名駅で夕方からトラップにはまった人達の中には歩いて名駅から藤が丘まで「大雨の中」帰ってきたようで…お疲れさまでした。

2026年9月7日月曜日

今回の帰郷で考えた事

今回両親の米寿と弟の初盆を終えて名古屋に帰ってきました。

一つ強く感じたのは両親の人生のエンディングが随分と近くなったなという事でしょうか。何時も自分でいろいろな患者さんを見ていて家族さんにも説明するんですけど、「80代の老化は毎年進む感じ、90代の老化は毎月進む感じ」というのがまさに自分の親にもぴったし当て嵌まるなっていう感じでした。

今回は親父の下腿の浮腫が「非常に」強くなっていて、腎機能の大きな低下が既にかなりのレベルに達しているなという状況を身体症状として見せつけられました。結局、心臓のほうにも影響強くなってくるだろうなと推定できるのが内心辛かったです。

昔から私よりもはるかに筋力が強く、その腕っぷしには勝てる気が一度もした事が無い柔道黒帯の親父が私の直ぐ傍で歩いている時に数回転びかけ実際に一回はどて~っと倒れたりしています。勿論こういう転倒の心配は温泉での入浴中もずっと続いていましたが…。

そして、実際に最も恐れているのは親父の単独入浴です。今回帰郷したときに旅から帰ってきた親父が風呂に入ったまでは良かったのですが、なぜか出てきません。私自身も忘れていたのですが、気づいたらもう一時間ほどは経っていた感じの時に私が浴槽を覗いてみると茹でダコのようになった親父がうなだれて鼾をかきながら寝ているでは無いですか!

余りの事に親父の肩を叩いて起こし、大きな声で怒ってしまいました。

「もう施設はいらんとヤバいやん!」すると親父は「大丈夫~!」と強がっていましたが、浴槽に浮かぶ水死体というのは日本では毎年大量にインシデントとして発生しているのです。まさに冗談じゃないというレベル。監視用のウェブカメラつけるとかせんといかんのかなと真面目に考えてしまう私でした。

いや、やっぱり施設かな…。90近い親の一人暮らし。もうエンディングはやっぱり孤独死の予感しかしません。名古屋に呼ぼうかな…。

2026年9月6日日曜日

やらかしたorz

鹿児島から戻って来て皆で焼き肉を食べた帰りに家まで戻って車庫にバックで入れようとしたときに「やらかし」ました。

キンコン、キンコンとならしながらゆっくりと借りたフリードのレンタカーをバックさせている時にガスッと嫌な音がしました。そうです、家の車庫の壁に車体の左後ろを傷つけてしまったのです。

名古屋でいつも運転している自分の車と同じように障害物に近づけば警告音がなると「思い込んでいた」自分の愚かさです。真暗闇の中で駐車時に車体を擦るなどと言う若葉マークのような愚かなミスを犯してしまった事に軽い衝撃を受けました。

もう夜も9時になっていたので、レンタカー屋さんは閉まっています。しょうがないので、明日車を返却するときに事情を説明せねばなりません。orz 

夜ではありましたが、時間が無いので家の片づけを更に進めました。細かなものですがやはりまだまだいろいろと処分しなければならないものが大量にあります。それでも、結局のところは親父の家ですのでやはりある程度の遠慮はあります。そこである程度は「放っておく」ことにしました。恐らく親父に万一があった時にはいろいろと大変な事になるでしょう。

一晩経って、朝になってももう少し片づけを続けましたが、結局それも中途半端なままで親父を連れて皆でイオンに行ってスリップ・インの可能なシューズなどを探し回ったりしながら時間を過ごしました。あまりにも親父の脚の浮腫が酷すぎてサイズ29でもまだまだキツキツでした。

4時半過ぎには車を返しに行ったのですが、実は車の保険のフルサポートを受けるためには警察の実況見分を行っておかねばならないという仕組みがあったんだそうです。orz

しかし、しかし、ここでレンタカー支店の一番上司の方が「純粋に自宅でのアクシデント」であったか否かを何度も確認されたのち、検分図をきちんと記入し特別に今回のインシデントを報告することで特別にお許しを得ました。

その後、飛行機に乗り込み名古屋へ戻ってきたのですが、やっぱり光の無い田舎の宮崎と違い名古屋はどこへ移動するにも道が高速で繋がっているし、なんでも手直にあるという意味で宮崎にはもう帰っては住めないなと感じたのでした。それは嫁さんも同じで、死ぬまで名古屋を離れるつもりはなく、この地で死ぬと私に宣言しています。

今回の旅では宮崎の親父の年単位で目に見えて進む「老い」をまざまざと見せつけられました。最後の最後はどうなるのか未だ判りませんが、軟着陸を望むのは親父も私も変わらないと思うんです。


2026年9月5日土曜日

特攻平和会館

蕎麦を食べて今回の旅の目的のもう一つの大きな柱である特攻平和会館へと移動しました。

桜島を左手に眺め、右手にはH2ロケット?の巨大なレプリカがある道をずっと走り続けるとその会館がある「知覧」へ到着。知覧茶で有名なエリアですが、場所自体はとても特攻のはとても特攻の出撃基地があったとは思えないような長閑でこじんまりとした場所です。

暫くすると見えて参りました。特攻平和会館。
前から見るとそれほど大きく見えませんが、中にはびっしりと特攻されていった方々の遺書や持ち物が展示されており、そのリアリティとそれぞれの人物達の背景にある物語の悲しさに打ちのめされます。

長女は文章が読めずに写真と活字化された文章のみ読んでいたようですが、私自身はその書き手の性格や教養がそのまま写しこまれたような遺書となる手紙やハガキを見て涙が溢れそうななりました。悠久の大義の下に等と言う美名の背景には国家によって死を命ぜられた17歳!から20代前半の方々を中心とした戦死者の方々、平均年齢21.6歳の死の前の文と写真の前には喉元に込み上げる熱いもの以外の何物もありませんでした。

検閲される前提で書かれた手紙の裏には決して語られない本人の物語が隠されています。

外道の戦法はお互い顔も知らない二つの国の人間が敵国殲滅の名の下に殺しあう無意味さを三度自分に思い知らせるのでした。あの時、日本や肉親の為に散っていった今の自分の子供より若い人々の犠牲に応えるような国家になれたのか、改めて我々は問わなければ再び愚かな行為を繰り返しかねないと考えます。
錦江湾より引き上げられた21式ゼロ戦
帰りには特攻の話をまとめた「只一筋に征く」という本を買いました。

国の未来の礎たる若者を戦地に送り消耗させるためだけに死を命じる作戦のどこに大義がありましょうか?金の卵どころか金の卵を産む親鶏も死に至らしむ作戦を狂気と呼ばないのは明確な間違い。戦前戦中にこの若者達を煽りに煽っていた軍の連中や報道関係者達が戦後にのうのうと平和を享受した事実を我々は決して忘れません。

もしこの死に追いやられた若者達が生きていればどれほど今の日本の繁栄に資していたかを考えると慙愧の念に堪えません。

特攻でお亡くなりになられた人々の合計は6,371人。愚かな戦いを聖戦の美名の下に美化することは決してあってはならないと思います。領土拡張の野望で愚かな指導者に操られる隣の赤い国を見て嗤っているいられるのか?30年ほど前に北朝鮮のツアーで一緒になった当時60くらいだったオジサンがポツリといいました。「今の若いあんたたちは北朝鮮のこんな状態見て笑うだろうけど、戦時中の日本てこんな感じよ」と。

歴史は場所と時を超えて繰り返すということでしょう。

車を運転して宮崎へ戻る激しい雨の道すがら、いろいろな想いが交錯した一日でした。

帰り着いてからは近所の焼肉屋さんへ行って親父にお祝いを渡しながらその米寿を祝いました。転倒にさえ気をつけてくれれば90歳までは先ず生きてくれると思ってます。がんばれ親父!

2026年9月4日金曜日

明るい農村蒸留所

朝もはよからトップにある階の展望風呂に息子を連れて入ってゆっくりと朝の湯を愉しみました。

その後からみんなで美味しいバッフェ形式の朝食を摂るためにみんなで移動。本当にいろいろな小品がズラリと出されていて正直ひとつづつ全てを食べても腹が破裂するレベル。全部味わうのは到底無理というのは最初の一周目で直ぐに理解出来ました。

朝食が終了したらすぐに部屋の内湯です。旅先で深い緑の木々と桜島を眺めながらの入湯は最高です。この後の動きをどうするか考えましたが、まず昨日霧島神宮から帰る直前にチラリと目の端に入っていた「明るい農村」見学のお誘い看板のお誘いに乗る必要があります。^^

そして目的の場所を直ぐに発見!ワクワクです。

レンタカーで工場の前に近づくと美しい笑顔のお姉さん二人が店の前で出迎えてくれました。誘われるままに中に入るといきなり一升瓶ならぬ一斗瓶の「明るい農村」が出迎えてくれました。

これをら抱えて家族5人で記念撮影もしました!

蒸留所見学を始める前にこの蒸留所で作っているいろいろな焼酎の試飲をさせてもらえるのでsが、私は運転手。涙を流しながら娘の試飲を眺めています。工場見学は明るいお姉さんが手際よく、かつ楽しく進めて下さりながら興味深い話を混ぜていろいろとサービスしてくれました。

上の写真に写っているタンク一本を普通の人が飲もうとすると毎日飲んでも40年かかるんだそうです。w このタンクが建物の外だけでは無くて内側にも80本!あるとの事。以前は年にタンク5本ほど毎年出荷されていたそうですが、最近は3本程度に減っているとの事。必ずや巻き返して貰いたいもんです。酒というのはいろんなサイクルで流行り廃りが繰り返されます。ウイスキーしかり、焼酎しかり。
美しくレイアウトされたお店の中には私の大好きなTシャツも売っておりましたので迷わず購入いたしました。結局ここでだけ手に入れられる復刻版のHOUJOU NO MINORIともう一瓶の明るい農村(赤芋仕込み)を購入。その後、美しい笑顔に見送られて店を後にしました。

みんなで「明るい農村」を飲みましょう!^^

次は知覧の特攻平和館に行く予定。その前に昼ごはんをどこで食べるかというのが次の問題でしたが、実は私の勤める病院の看護師さんに南鹿児島の出身の方がおられまして、実はその方が高校の頃に勤めていたバイト先が美味しくて有名な蕎麦屋さんだという事で、道すがらにあるそのお店に直行しました。

名前は「そば茶屋・吹上庵」という所でした。たった一つのミスは事前にどのメニューが美味いのかというのを聞いていなかった事。orz

仕方ないので板そばを食べたのですが十分に美味しかった!しかし後で知ったところによると「冷やしゴマダレうどん」を食べるべしとそば家を出た後に返答が帰ってまいりました。時すでに遅し。w しかし十二分に美味い板そばでした。

取り敢えず、今日はここまで。