2024年12月31日火曜日

今年も年末感の無い大晦日

2024年(令和6年)の大晦日は隣でテレビ(主に紅白)を視ている嫁さんの主導によって終了。

夕食終了後には丹波の黒豆を出してくれました、その数時間後、夜の10時前には年越し蕎麦を家族に配り今年の我が家の食事は終了。紅白歌合戦には嫁さんの大好きなB’zが登場し、会場の異様な盛り上がりを食い入るように見つめている姿がありましたが、タダでこんなもんが視れるのは彼女にとってはラッキーな年末プレゼントだったことでしょう。

紅白も最後で白組の圧倒的な勝利に終わり、蛍の光を合唱した後「ゆく年くる年」風の画面に切り替わっていたようですが、実際にはその前後に行われていた芸能人達のミニ・マラソン大会等を食い入るように視ていた時間もありました。

しかし、ウクライナでは今も空襲警報が鳴り響き、パレスチナでは毎日無辜の人々が糞ハマスの起こした誘拐・殺人の影響で絶滅の危機にあるというのに、ここ日本は「今年は」のんびりしたものです。

とは言え、この日本も一見のんびりしているように見えるだけで、近所に居る…というか隣の赤い国々のトンデモナイ面々が己の保身のために織りなす碌でも無い侵略政策の数々が、世界の国々に余計な緊張を撒き散らしていますが、改めて社会主義とか共産主義がとてつもない糞ポリシーだというのを世界に見せつけた年になりました。

人間が考えた「~イズム」なんていうのはほぼどれも碌なのは無くて、こうあって欲しいという姿には何れも程遠いもので継ぎ接ぎだらけ、民主主義と言われる形態も一枚薄皮を捲れば中身は殆どが残念なものばかり。それでも、共産主義や社会主義等と比べればまだマシだからこっちを選んでいるというだけの話。

横で楽しそうにテレビを視ている嫁さん達をジッと見ていると、80年前の同じ場所では毎晩空襲に震えながら逃げまどっていた日本人の一群が居たのだという事を考えると、まさに隔世の感がします。

しかし、あと20年で1世紀になろうという日本の平和。果たしてきちんとその貴重な時間を延ばし続けることが出来るのでしょうか。平和は脆く、戦争の開始という行為自体は恐ろしいほど容易な世界の情勢を見ていると、こういう静かな「何もない年末」と云うのは本当に貴重なものだと思えるのでした。

2024年12月30日月曜日

年末には別の意味で「悲劇」がある

今年最後の当直でした。

去年までと違い、最近の当直は精々あっても月に三回。ほとんどは二回までで済むようになっていて、外部から大学の先生を当直に雇う様にする事が殆どになっています。アクティブな先生なんかは60歳を超えて月に8回以上とか恐ろしい事をしている人も居ましたが、次第にそのような事は許されない時代になってきました。

とは言え、何だか今日の当直はキツイものとなりました。朝一番に病棟に入った瞬間に心臓マッサージをしなければならないような案件が入り、一時間ほどの格闘を行ったにもかかわらず、命は戻ってきませんでした。

その後もインフルエンザAによる熱発患者が連続で報告されるわ他の病棟で死亡確認を依頼されるわで真っ当に眠る事も出来ませんでした。これ、宿直なのか当直なのか訳の分からない状態ですよね…。まあ、部外者にはどうでもよい事なんですけどね。w

さて、夜になって遺体を引き取りに来られた業者の方とエレベーターで偶々居合わせることになりましたが、実は夜になって迎えに来られる迄に随分と時間が経っていたのでした。

電話で最初に伺った時には3時間以上もお待ちいただく…等という事を言われていたのですが、実際に来られたのは2時間30分を少し超えた頃でした。理由を伺うと「名古屋市内の業者の全ての車がフル回転して御遺体を運び続けても追いつかない」との事。

個人的には「特に冬だからといって今日に限って増える理由は無いはず…」と思って訝しんでいると、業者さんが一言「警察からの依頼が多いんですよ」とサラリと言われました。「?」と思って考え込んでいると「田舎から帰ってきた御親族が家で亡くなられている御両親、御親族なんかを見つけて警察が動くというのが多いようです」とのこと。

思わず、えええっと声に出してしまいましたが、よくよく考えると普段は繋がっていない年老いた家族が、物理的に家に戻ってきた子供達によって「御遺体」として発見されるのがこういったシチュエーションになるのは当然ありやな…と納得してしまいました。

年老いていなくとも「一人で生きる」という事はこういう最後を迎える可能性が高まるのだという事も受け容れなければならないという事なのだという事を改めて理解させられた2024年最後の当直の寒い夜でした。

しかし、再会のために家に帰ってきたら親が家で…という状況で年末を迎えた方々の事を考えると言葉も有りません。

2024年12月29日日曜日

カーター元大統領死去

カーター大統領の死亡が確認されました。

あの大平首相の時代に活動していたと考えると、恐ろしく昔の話だな~という実感が湧き上がってきます。あの!東京サミットで居並ぶ首脳陣はサッチャー、シュミット、アンドレオッティ、ジスカールデスタン等という既に近代史の教科書に出て来るような人々な訳で、その年季の入り方が解ります。

未だ私は小学生でした!w

私にとってのジミー・カーターというのは南部ジョージアのピーナツ農家の出身で、そもそもが近所の人達と集まって大工仕事をしたりするような人、かつワシントンのいわゆる「established」と言われるような連中とは対極に居る人という感じで私の中学時代に彼の事をニュースで視ていた覚えがあります。

その次に「私にとって」印象深い彼の政治家としての達成事項と云うのはイスラエルとエジプトの和平合意。未だに両国には精神的な溝や政治的に強烈な駆け引き、裏世界での暗闘等は普通に有るにしても、合意以降エジプトとイスラエルがダイレクトに戦火を交える事は無くなった訳ですから、外交では中国との国交締結も含め大きな仕事を成し遂げた人だったと思います。

ただ、経済への貢献は最低だったのは中坊の私でも連日のニュースで解っていましたし、イランの米大使館人質事件での汚点やソビエトのアフガン侵攻を許したのもアホの極みでした。侵攻後にソ連は戦場で地獄を見る訳ですが、以降のテロ組織の拡大と暗躍、延いては9/11へと続く暗くて長い道の素地の敷衍を許したのはお人好しの甘い見通しでした。

この後、レーガンという鷹そのものの誕生が準備され、彼が悉くカーターと反対の事を行ってアメリカの経済と国力が回復していったわけですが、ボロクソに言われて引退した筈の後の彼の言行は逆にいつまでも残る「善き人」としての側面を輝かしいものとして懐かしむ人々が多かったのが本当に印象的でした。

James Carter Jr. 1924年10月1日 - 2024年12月29日 100歳の天寿を全うされました。

2024年12月28日土曜日

帰ってきて早速また忘年会

昼頃にはサクッと名古屋まで戻ってきました。

山に泊まれなかったことは残念ですが、こういう事は命あっての物種です。次回チャレンジするときはやっぱり四駆を借りていくか、四駆を持っている人間とキャンプに行くのが良いのでしょうが、そんな人間を周りに直ぐに見つけられる環境にはおりません。

取り敢えずユックリそういうチャンスを待って「人」が現れるのを待とうかと思います。^^

そう云う訳で今回はキャンプの件は終わり、ここからは今晩の後輩との酒飲み会の話です。実際、一昨日から病院の後輩任せで店が脳内リストから抽出されるのを待っていたのですが、この時期はどこも当然の様に一杯。何時もはもう少し下手に出て来るお店も今日ばかりは入った瞬間「ご予約は?」てな感じで、所謂「一見さんお断り」的な雰囲気を醸し出してくれていました。

まあ、これがダメでも覚王山があるわい!くらいに思ってグルグル回って居たらナント!昨日の岐阜のデジャブが登場してきました。そう、煙力が眼の前に出てきたのでした。ここに首を突っ込んでみると15分ほど待っていただければ入れます!と言われたので、外で待っていると2分程度で「ハイ入れますよ!」という事になりました。

私自身は昨夜からの連発ですけど、彼にとっては好きな焼肉を食べられるという事で私が我慢すればよいだけの話。ここでビールをガチッと飲んで、肉をしっかり腹に詰め込んだところで二次会の覚王山へ移行し泡盛43度で呑み始めたのでしたが…。

彼には濃すぎたようで、鼻を近づけただけで”ウプッ”という感じ。それでも頑張って薄めながら吞んでいたのですが、暫くすると「もうこの辺りまで酸っぱいものが上がって来てます~」等と言い始めたので、ここでストップ。

ナント、彼は私にゲロ袋を準備してきましたというのを見せてくれました。あと、口を拭くためのウェット・ティッシュも。何というか大笑いしてしまったんですが、彼は真面目なんですね~。w

2024年12月27日金曜日

キャンプの為に長野へ向かうも…

今日は仕事を終えて前から決めていた長野方面へのキャンプに向かいました。

病院にそのまま置いているキャンプ道具の箱をサクッと車に載せて、何時も準備しているレトルト・カレーもそこに入っている事を確認した後北に向けて出発しました。

最大の心配は路面の状況。私の車はFFの上にタイヤは夏用タイヤ!人生で一度もスタッドレスタイヤなどというものを装着したことが有りません。メリーランドやバージニアに居た頃も雪が降ろうとお構いなしのサマータイヤで通してきた人間。そういう状態では平地では何とかなっても、坂道の上り下りではどうしようもない事は良く理解できています。

昔、ゴルフIIIに乗って居た頃にヤナセから代車で借りたオペルのベクトラに乗って朝の雪の山道を登っていき、目の前を軽の四駆がスルスルスルッとなんの危なげも無く走り去っていく姿に「勘違い」して己も行けるかと思ったら全く上っていくことが出来ず、逆に後ろにズルズルと滑り出してもう少しで崖下へ転落して死ぬ寸前でした。

結局、圧雪路・アイスバーンでは普通のタイヤを履いて四駆以外で坂を登ると「死ぬ」という臨死体験?だけが体験(トラウマ)として強烈に残りました。

という訳で、雪山には畏れを抱いていたので、道がヤバそうだったら絶対に近づかないと固く決めていたのですが、夕方までの段階では雪マークも無く安全そうだったのですが、義父を超えた時点でもうヤバヤバ。例えキャンプ地に入れたとしても、そこから安全に出て来ることは出来ないな~という感じの予報に変わってしまったのでした。

その時点でもうさっさとギブアップして、岐阜駅まで戻り適当な安宿を見つけて泊まる事にしました。

幸いにして一万しない程度の宿が直ぐに見つかったので、そこにアクセス。車は満杯でしたので、案内された近所の駐車場まで行ったのですが、この年末のこの時間帯…どこも空いておりませんでした。しょうがないので歩いて10分ほどの所へ停めてホテルへ戻り荷物を部屋へ入れて直ぐに夜食を食いに出ました。

すぐ外にはいろいろと魅力的な店が並んでいたのですが、眼に入った焼き肉の文字に引き寄せられて入ったのは煙力(「けむりき」と読むのだそうです)でした。

一人用でもきちんと使えるコンロが眼の前に置いてあり、強い火力でサクサクと肉が焼けます。次々と憂さ晴らしの様に肉を食ってビールを流し込んで岐阜駅前で夜を迎えました。
寂しーw
昨日の夜は二時過ぎに寝たために今日は早く寝る事にしてさっさと床に就き思わぬ場所での爆睡となりました。

行きの中で無理はしない!との己の心の約束に従った結果でしたが、まあこれで良かったのかな。次回の挑戦を待つ!という感じでしょうか。

2024年12月26日木曜日

嫁さんと飲みに出ました

家に帰ってきた後でちょっと思い立つことがあって嫁さんを誘いました。

今日は息子が家に居なくてお泊りをする日でしたので、夫婦二人と娘たちだけです。という訳で「飲みに出んか?」と誘ったところ、既に風呂上がりで髪を梳かしていた段階でしたので、ちょっと文句が出てきました。「ええ、もう少し早く言ってよ~。言ってくれれば、髪もお化粧もそのままで行けたのに!」との事。

ところが、その後は意外な言葉が嫁さんの口をついて出てきました。「実は私も銭湯かお酒を飲みに誘おうかなと思ってたのよ」と。

おお、これは奇遇ということで40分程度で準備をしてもらうことになりました。急いで髪を乾かして、ちょっと化粧をしたようで二人揃って寒空の中を藤が丘駅へ!二人で並んで座席に座りどこに行くかを最終確認。嫁さんの希望は「沖縄料理をいつもお父さんが行くお店で食べたい」とのことでしたので、覚王山へ向かいました。

直ぐに到着してお店の中へ入ると嫁さんが先ずは生チューという感じでオーダー開始。店のママさんが「今日はお客さんが少なくて困ってたんで、助かりました~」と満面の笑みで迎えてくれました。

我々にしても次々に出すオーダーが、ほぼ我々だけのために処理されるので好都合です。実際に、何故か今日は夕食を殆ど取っていなかった嫁さんがいつもの様に舐めるようにメニューを見て次々にオーダー。びっくりするほどの注文をしているのを前で見て私はただ腰を抜かしていました。

出てきた料理は、まずいつもの自分では絶対に注文しないようなものの数々でしたが、食べてみるとみんな美味しく、たまには他人を連れてきていつもは食べない料理を食べるのも良いかもと感じた次第。

10時半頃までマスター達と笑いながらいろいろと語らったあとに家路につきました。

子どもが大きくなると、こういう事が出来るのが良いですね。

2024年12月25日水曜日

「問題あり」と言われて紹介を受けた患者さん達

臨床をしている醍醐味は何と言っても患者さんと話しながら進める日常の治療。

ほとんどの患者さん達とは楽しい会話をしながら毎回毎回笑顔で別れる事の繰り返し。しかしながら、患者さんの中にはなかなかそうとばかりはいかない人が混ざっているのもこれまた普通なのです。

特に医療連携の人間から前もって連絡が入っているような人がたまに居て、「XXさんという次の患者さん、いろいろと揉める事が多くて精神科の外来で暴れて警察沙汰になった事もあるようです」とか「Yさん、昨日の夕方は物凄い事になって、他の病院の受付けで2時間くらい居座ったらしいです」等という前情報を聞くと、私の頭の中で巡る想いは意外とシンプルで「あ、そうですか」という程度のもの。

私にとって大事なのは患者さんを診る時に先入観を可能な限りゼロにしておく事です。

確かに精神疾患を持つ患者さんでrestlessだったり、易怒性の強い人などは居ることは居ますが、そういう人々でもその視線や表情を読み続けながらその一人一人に異なった対応をしていく事で最善の反応をその一人一人から引き出す事にチャレンジしています。もちろん毎回全員に最初に思っていたような対応が成功する訳ではありませんが。^^

その「問題あり」といわれた人の診察が何事も無く互いがにこやかに終わった後で、後ろで控えていた看護師さんが「本当にあの人問題があるって言われてた人なんですか?」と尋ねてくれた時は私の気持ちも上がろうってもんです。w

いろいろな疾病を持ついろいろな年齢の患者さんとの出会いの日々、一筋縄ではいかない事が起き続ける日々ですが、疾病と人間への対応力を試されるのは緊張感と充実感に満ちた楽しい日々です。

これからどこまで対応力が伸びるのか…アラ還挑戦の日々です。

2024年12月24日火曜日

クリスマス?

今年も12/24を迎えましたが、超久し振りに家族5人全員が日本に居るという珍しいクリスマス・イヴとなりました。

次女はバイト先に行ったままなので、残り4人の家族が豚シャブを食べて腹一杯になった後にモンブランのクリスマスケーキを食べていた時も次女だけは居りませんでした。

今年は私自身は嫁さんにちょっと早めのクリスマス・プレゼントとしてJBLの携帯型スピーカを送っていたのですが、嫁さんも靴下をプレゼントしてくれました。私からのプレゼントの方が金額的に高かったので取りあえずはメデタシメデタシ。^^

コレと言って他にする事も無く、モンブランのクリスマスケーキにキャンドルを立てて、火を点けたのを息子に吹き消して貰い、全体を6つ程度にカットしてから美味しく頂きました。

アメリカに居た時の様に一か月も前から雰囲気のある飾りつけやクリスマスツリーを家にドーンと置いて飾りつけをしたりするわけでもなく、前もってプレゼントの箱をツリーの下に置くような事も無く…クリスマスも日本に帰って来てからは極めて形式的なものになってしまいましたね。

そもそも、アメリカのクリスマス・シーズンも今の時代、多くのアメリカ人にとっては極めて商業ベースの行事という感じで、宗教色もそんなに強くは感じませんでした。況やほぼキリスト教の信仰とは無関係の大多数の日本人がクリスマスを祝うのはほぼ「年末気分」+「商業主義の無意識片棒担ぎ」レベルのお話。平均的な日本人にとっては精々、子供や嫁さんにクリプレと称す何かを買って家で、家でケーキを食べる日という様に定義しておいてよいのではないでしょうか。

何でも取り込み自分のものに改変してしまう文化の柔軟な吸収国日本。今年の年の瀬もまことに「らしい」年末となりました。

2024年12月23日月曜日

墓穴を掘ったのはあなた自身

今日は内科外来で「あるお婆ちゃん」が大暴れでした。

事の始まりは施設からの依頼でして、このお婆ちゃんが下腿の浮腫が酷くなってきているから一度診察して欲しいというものでした。無論異論などありません。直ぐに連れてきてもらい、診察を行いつつ採血したうえで画像データも集めました。

結局、肺気腫をベースとした心不全の増悪。確かにソックス状になった浮腫が経時的に膝に近づくと共に、呼吸も苦しさのあまり酸素を使わなければどうにもならないレベルで、胸に水も溜まっていました。当然入院の運びとなったのですが…。

実はここからがお婆さんの一日の始まりでした!

このお婆ちゃん、入院したくない余り有る事・無い事いろいろと文句を言い始めたのです。その内容がほぼ譫妄(せんもう)に近い様な発言で、事実誤認と記憶の間違いと日頃の施設への不満が入り乱れたハチャメチャなもの。

役所の人間、病院の担当者、施設の人間の皆さんが入り乱れていろいろと説得したようですが、一切効果なし。おまけにこの患者さんの妹さん迄も「あなたが来ても家に入れない」と言い切る始末。もう自分自身で四方八方を塞いでいったのです。最終的には警察を呼びつけて施設に騙されたという本人の主張をぶつけようとしたのですが、無論相手にされませんでした。

結局、入院は勿論、妹の家にも帰る事は叶わず宙ぶらりんの状態で施設に一泊。施設の方針に従えない人は施設にも最終的には居残りは出来ません。

大暴れして拳を振り上げたのは良いものの、お婆さんに残ったものは摩擦だらけで傷ついたお婆さん自身の心の傷と治療されていないお婆さんの病気だけでした。感情に任せて拳を振り回すのは簡単。しかし、それを収めるのは本当に困難なのです。

お婆さんの一日を見て改めて己にそういったことを自分が起こさ無いように肝に銘じたのでした。


2024年12月22日日曜日

伊勢志摩の旅から戻りました

朝は7時前に嫁さんに起こされました。

私はもっとゆっくりと起きたかったのですが、朝の時間の早い時間での移動開始を目論むこの方には勝てません。7時前には私と息子の眠る部屋にドカドカと入って来て「はい起きて~」と尻を叩きました。

息子も私も昨晩は直ぐに寝ましたので、これしきの「妨害」ではやられません。そもそも、私も息子も週末の何も予定が無い時は普通に10時くらいまで寝ている人なのですが、今朝はそういう理由で「やられた感」は有りませんでした。

7時半から食べたホテルの朝のビュッフェは実は我々の毎年の愉しみ。朝から食べきれない程の和洋の小物が揃えられた沢山のテーブルから選び放題の状態なんですが、ここのホテルはミシュランで星を取る有名女性シェフ長が居られるだけあって、献立が良く練られているなと感心すること頻りです。そんな朝食に大満足して今年もこのホテルを後にしました。

ここを出て向かったのは長女のリクエストに従った二見の夫婦岩観光。何で娘がこんな所を知っているのかと聞いたら「外人の旅行記にお勧めで出てた」とのこと。何時でも娘達の検索のベースはガイジンの視点が中心です。まあ英語が思考の中心なので仕方ないですけどね。

恐らく私自身は7~8年ぶりという感じで滅茶苦茶久し振りに行ったのですが、今回は波風が強く猛烈なしぶきで家族全員が波にやられました。おまけに私の髪は風にやられて(嫁さん曰く)ドンキング状態。w
波風強し!
それでも行った甲斐があったと思える良い景色でした。アジア系の外人さん達が沢山来ていたのが言葉で良くわかりました。昨日フグを食べた後に寄った安乗崎灯台の時とは違う劇的な強風でしたが、また行きたいですね。

その後は定番のお伊勢参り「内宮」詣でとおかげ横丁での買い物に行ったのですが、内宮を気持ちよく巡っておかげ横丁迄再び戻ってきた時はちょうど赤福の店の曲がり角位のところで雨が本格的に降り出して急いでギブアップ。参拝は出来たし問題は無かったのですが、もう少しゆっくり買い物したかったなというところでした。とは言え、私は伊勢志摩サミットで各国首脳に出されたという宮﨑本店の「宮の雪」というお酒を買えましたけどね。^^

車に乗り込んで最後に向かったのは1時半ごろで少し遅かったのですが、昼飯という形でいつもの四日市のヒモノ食堂へ!一時間ちょっとの移動に家族をつき合わせたのですが、気持ち良さげに皆さん寝ておられました。(^^)

到着して直ちに縞ホッケ2つとサーモン、きんきを注文しました。やっぱりここは時間をかけてドライブしてでも来る価値のある食堂だなと思いました。もう私はココには10回とは言わずに来ていますが、もっと近ければ毎月でも来たい、藤が丘にあれば毎週末はココでも良いくらいです。調べてみると、そもそも醬油メーカーさんが運営しているとの事なんですが、でっかいグリルで焼かれたヒモノの味はやはりここでしか出せないような気がします。

夕方にはゆっくりと帰って来て寛ぎの夜を過ごせました。ちょっと速めでしたが、再びの素晴らしい旅となりました!

2024年12月21日土曜日

年末の伊勢志摩へ!

年末の恒例行事のようになりましたが、家族四人で安乗ふぐを食べに行きました。次女は仕事と猫の世話でお留守番。

行ったお店は何時もと同じく安乗ふぐの「まるせい」です。これで私自身は3回目かな?と思うのですが、ここは何時行ってもハズレ無しとは言っても行くのは常にこの時期で、最高の白子が食べられる時期なんですけどね。

このお店、何十回とテレビや雑誌の取材を受けているお店で、店内には(恐らく一部でしょうが)大量の芸能人やテレビ関係者の色紙が並べられています。しかも写真付き。私が一番気にいっているのは当然?小柳ゆきなんですが、彼女のハンドボールくらいしか無い顔の写った写真を一年ぶりに見せて頂きました。

ただ、驚いたのはふぐ料理の値段の変わりよう!
以前は確か、もう少し安かったような覚えがあるのですが、やっぱり1000円くらいは上がっているような気がします。やっぱり船の燃料代とか餌代とかいろいろ上がってきてるんでしょうね。世の中の動きに合わせたインフレ状態というものなんでしょう。それにお店の中も昨年とは内装が変わっていて、明るくなっている感じでした。アップデートというやつですね。^^

今日のこの日のコースの非日常的な量を考え、例年のパターンからしっかり学習したつもりだったんですが、今回も朝食を抜いて行ったにも拘らず我々の小さな胃袋ではとてもとても太刀打ち出来ませんでした。w

という訳で、今年も半分泣きながら最後のふぐ雑炊を食べておりました。最後は女将さんに気の毒そうに微笑まれながら店を退散。また来年も来れたら来たいな…。ただ、来年はもう一つ下のコースで充分ですね。orz

この後はコレまた例年の如く伊勢志摩観光ホテルのザ・クラシックのほうに泊まる為にそちらへと移動。年末限定の「非日常の世界」へと入っていくことが出来ました。

夕方6時半にはアノ伊勢海老や鮑を使った贅沢なディッシュが出て来ることは判っていましたので、5時間の間に腹が減るのか…と思ったのですが、やっぱり無理でした。結局、空腹感の殆どないまま贅沢な夕食が開始され間違いなく劇的に美味い料理が出てきて、相変わらず感動するほど美味かったのですが、やっぱり腹は満タンになってしまって…。

結局ジャバ・ザ・ハットのようになった感じで部屋へ戻って行きました。

息子をトイレに座らせたらウンチもでたのですが、吐いてしまって…。来年からはふぐ料理のコース変更をお願いしなければなりません。

息子はベッドに入ったスーッと寝てしまい、夜はアッという間に更けていったのでした。

2024年12月20日金曜日

たかが2回の失敗なんぞ

カイロス・ロケットの二度目の打ち上げが失敗しました。

スペース・ワン社がギリシャ神話に登場する「時間」および「機会」の神。同社は世界で最も契約から最短で、頻繁にロケットを打ち上げる宇宙輸送サービスを目指していて、「時間を味方に市場を制する」との意思を示したというカイロス・ロケット。

一回目の打ち上げは自律飛行安全システムの問題?そして先日の打ち上げでは90秒後にノズル関連の問題で制御不能になったようですが、私の個人的な感想は「なんのこれしきw」という感じです。

電装関連はキャノン、機体自体と個体燃料でのロケット推進はIHIが主にやっているということらしいのですが、この二社がメインで頑張って経験を積めば恐らく何の問題もなく安定的なロケット発射が出来るようになることは間違いないでしょう。

問題は、この会社の資金が今後も続くかどうかという事と、今後何回かの打ち上げの中で失敗と成功を重ねていくのでしょうが、他の国のように政府丸抱えで補助金ジャブジャブでデベロップしてくるような国と勝負を続ける中で、資金が尽きる前に打ち上げを連続で成功させ続け、最終的には打ち上げる毎に黒字を積み重ねるというような好循環を「できるだけ早く、一機でも早く成立させる」事に尽きるのでしょう。

それにしても、今回の打ち上げはたったの二回目!です。たったの二回でその二回目がそれぞれ異なる理由で失敗したところで、私からすれば本当にそれが何?って感じです。アメリカやロシアを見ろって話。恐ろしいほどの大小の、そして悲惨な失敗を重ねて今のアメリカやロシアのロケット事業があります。

日本人は完璧を求めて失敗を許さないが故に(ロケット大国となった諸外国に比べるとそもそもの予算が少なすぎる!)失敗はそもそも何に起因するのか等という知見の集積も進まないまま、一点集中で成功する事ばかりを求めてきました。今華々しく活躍を伝えられるSPACE Xでさえ何回失敗したことか!?

いい加減前に進む人間の転倒を嗤うのは止めろと言いたいです。転ぶ人間は歩くからこそ!動かない人間は転ぶこともありません。失敗しない最高の方法は何もしないことです。しかし、それは座して死すと言うことなんではないでしょうか?討って出る人間を嗤うやつには嗤わせておけば良いのです。

2024年12月19日木曜日

無い袖は振れない時代に

最近、開業医の先生達が呻き声を上げているようです。

「ようです」と云うのは私がそういった情報を見るのは医師専用のサイトで色々な医師が書き込んでいると思われるフォーラムを見ての感想。この一年で自分のクリニックや医院を開業をしている先生方が「もう終わり」とか「国は開業医潰しに必死」「受付も雇わず、自分で殆どやって看護師さん一人雇うのが精一杯」とか云うような書き込みがエラく増殖している印象です。

以前からそういう書き込みは当然あったのですが、この一年での増え方は半端ない印象で、株式相場の相場感で言えば「弱気」一色という状況です。

しかし、それは別に個人の病院に限らない感じでして、大きな病院に勤めているドクターからも「俺は公的病院に勤めてるから慢性赤字でも税金での補填で維持されると思ってるけど、私立なら逝ってるよな」等という発言も微妙に文言を変えて結構な頻度で散見されます。

実際の話、私のメインで勤める病院でもトータルの入院患者数は、いわゆる「最盛期」といえた時代からすると5-6%程度のコンスタントな減少を経験しています。コレは正直言って病院としては重大なインシデントで、ボーナスを出す出さないみたいなレベルにまで影響を及ぼす程の変動なのです。

そもそもがここ数年で段階的に色々な「今までの標準的な診療行為」において、以前は付いていたような加算が全く認められなくなるパターンが増えてきています。その間隔はほぼ2年毎なんですが、財務省主導でドンドコドンと切り落とされていきます。

まあ、これから残るのは自由診療と各都市の中央に残された三次救急とかなり数を絞られた二次救急ばっかりになるんじゃないでしょうか。

かなり近い将来には医療資源はかなり絞りに絞られて、21世紀初頭の医療行為のような「これから改善の見みが無い人も何とか助ける」という事が遠い昔の夢物語のように語られる日が来るに違いありません。

「無い袖は振れない」というお題目の下、財務省主導で人の命の選択は進んでいくのでした。良いか悪いかは別として、単に事実としてそういう事態が急激に進行している今の日本なのです。

2024年12月18日水曜日

ドス黒いネットの悪意

匿名でネットの掲示板に意見を書き込むという事が出来る今の時代、その掲示板の悪意に後退りしてしまうような書き込みを見ることがあります。

私自身はこのブログ以外にはネット上ではほぼ何も書き込みをしない人で、時々友達がネットにあげた美味そうな手作り料理の写真にハートマークをつけたり、子や孫として生まれた友人達の赤ちゃんの可愛らしい姿にオメデトウの書き込みを日本語か英語でする程度。

しかし、世の中には暇というか何というか粘着質、かつ物凄い悪意を持った人間が居るもんで、ヤバイよな~コレは・・・というような書き込みをする連中が沢山いるということに対して薄ら寒い気持ちになってしまいます。

単純な右翼のサイト程度のところはまだ可愛いもんで、今までで一番人間のどす黒い一面を見たなと思ったのは「ガールズちゃんねる」でした。コレの存在を知ったのは嫁さんがスマホにインストールしていると知ってから。

自分の方でPCでそのサイトを覗いてみるとその女性達?(ネカマも沢山いるんでしょうが!)からと思われるその差別的な書き込みや悪口に驚愕してしまったのでした。何と言うか人の心の見たくない面を剥き出しにして突進してくるような暗く冷たい書き込み。歪んだ、今のコンプライアンスの時代に「名前を出して」同じことを書き込んだら社会的に即死と言えるようなレベルの書き込みが平然とされていることに暗澹とするのでした。

嫁さんに対して思ったのは「よくこんなサイト読むわ!」という事ですが、良い書き込み、面白い書き込みもあるとかなんとか。

匿名で書き込んでもヤバいことを書き込んだら今の時代逮捕や賠償請求も有り得ると言うのは普通になってきましたが、一部の無敵の人々にはこういう事は関係ないのでしょうね。ちょっと前にもとんでもない書き込みをしていた女子中学生が警察の網に引っかかっていましたが、子供だろうがそこらの主婦だろうが、犯罪に手を染めてはいけないのはネット空間も現実空間も全く一緒。

ネット上の発言も現実世界と一緒であることを理解させるような教育を最近の学校では既に行っていると思うんですが、やっぱり一部のバカには浸透しないんでしょうね。

現実世界では何か言うとハラスメント・ハラスメントの大合唱。その反動のようにネットの上には日頃吐き出せないドス黒い鬱憤が吐き出されているような気がしてなりません。書き込みの主は自分が誰かというのがバレないとでも思っている低レベルの連中なのでしょうが、一旦法的に「開示請求」が発動したら今まで書き込みを行っていた全ての文言が世間に晒される訳なんですけど…。それを受け入れる度胸はあるんでしょうか。

ちなみに私の書いているこのブログは私を知る多くの人々に身バレしています。w

2024年12月17日火曜日

VHS対β戦争の勝敗の本当の原因は?

日経ビジネス電子版の記事を読んでいたら「VHS対β戦争 開発わずか5カ月、松下が放った対ソニー・奇跡の一手」という記事がありました。

中身を読ませてもらったのですが、ビクターが開発したVHSシステムを当時のナショナル?の幸之助さんが決断して世界で売りまくり始めるまでの簡単な内幕が時系列でわかりやすく書いてあります。

画質ではとてもとてもソニーのβマックスに勝てないというのが明確だったにもかかわらず、VHSは何故ビクターのVHSを選んでいったのかというのがそもそも「?」だったのですが、この記事を読んで改めてナルホドねって感じです。恐らくはもう少し細かい複雑な事情もあったのでしょうが、大筋はこんなもんで正解なのでしょう。

さて、VHS対βというと丁度私が大学に入った頃に決戦の最終戦という感じの頃で、次第にVHSが優勢になっているのが世界販売から明確に読み取れるという状況になっていた頃でした。勿論、オーディオマニアの先輩方のイチオシはBetamaxで、音質に拘る先輩方はやはり画質にもこだわりソニーの真四角のモニタを買って、それにBetamaxを繋げて画像再生を行うというのが標準。確かに我々から見てもBetamaxのビデオは画質が良いよな~というのが素人の共通認識でした。理由は異なれどテレビ局でも同じく使うのはBetamaxということで、プロの方もご愛用。

ところが、そういった先輩方の希望や画質上の勝利、巻き戻しやシステム的なローディングの優勢も虚しく、明確にVHSの勝利が世間で確認され始め、ついにはソニーが「Betamaxのテープは永遠に作り続けます」みたいな広告を大々的に新聞に打つほどの事態にまでなっていきました。(最後はソニー自身がVHSを作り始めるという事態に…)

では何故こういった見かけ上の画質の勝利等々にも拘らずBetamaxの勝利が導かれなかったのかというのは上に書いたような内情があったにせよ、実態はもっとシンプルなところにあったと私は信じています。

私の信じているBetamax陣営の敗北の根本はそのテープの録画時間が明示的でなかった事だと思っています。ベータでL-250(βII:60分、βIII:1時間30分)とかL-500(250の倍)とか書いてあったところで、それが一体何分まで録画できるテープかというのが全く理解できませんでした。勿論、読んで調べればよいのでしょうが、VHS陣営の60とか120とかいうその分数で明示的に理解できるシステムと比較すれば話にならないのは間違いありません。

もし、Betamaxがこの標準で録画可能な時間をもっと明示的に書いていれば、それだけで勝負の流れは随分と違ったものになっていたんじゃないかと思っているんです。マニアでないから悪阻、アホだからこそ感じる「見てすぐ理解できる」という事実への拘り。

どうでしょうかね、私の思い込み。w

2024年12月16日月曜日

貸金庫の闇というか銀行の闇、そして日本の闇

昨日のブログに対してコメントを頂きました。

その方の短いコメントは昨日のブログの下にありますが、教えてくださったのは以下の動画。
いやいやいやいや、ヤバすぎるでしょ、コレ。銀行というのは信用が商売の根源というか、商売の世界そのものが、そもそも信用がその取引きの根源だと思うのですが、その商売の中でも最も信用を売りにしなければならない所である筈の銀行の実態はやっぱりボロボロというお話。

別に三菱UFJでなくとも、いろいろな形態でヤバいことは日常的に行われていて、そのヤバい事が隠しきれなくなった時に銀行は謝罪会見を開いて揃い踏みでハゲた頭を見せながら揃い踏みをするのでしょう。

よく考えると、貸金庫を「個人」で借りている人達の中にはヤバい勢力だけでなく、別の意味でヤバい人達の金も預かっている訳です。それは認知症の人達もしくはそうなる可能性の非常に高い高齢者を中心とした予備軍。

この人達が個人でバックグラウンドの情報を登録していても、悪意ある銀行員の上の方がやらかしさえすればそのお金は消すことも出来るはず。今の状態ではその貸金庫に個人が何をいくら入れたのかというのは申告しないで使える訳ですから、その人が亡くなればその人に繋がる情報を意図的に消すなり、中身をゴソッと取ることも出来る筈。

要するに犯罪への意思と貸金庫にアクセスする権限がありさえすれば、貸金庫の中身は時間をかけて取り放題になりませんか?そもそも公的な役所でさえ個人情報を盗み見し放題というのは暗黙の了解で、そのアクセスログは全部取られていても、本当にターゲットとなる人間の情報は見られる運命にあると思います。

基本、こういうシステムは性悪説に基づいて作らないといけないのですが、人が関与してシステムを作り続ける限り「必ず」悪がこの隙間を狙ってくるもの。

一体、本当に全ての「事案」をきちんと数え上げたら銀行というシステムの内部が如何にぶっ壊れているのか判るような気もするんですけどね。w

所詮は銀行も人の集まり。良い人がたくさん小心翼々と仕事をしていようと、必ずソコには悪い奴も混じっているという話。消えていった金、モノ、記憶、全てはやがて持ち主を変えて時間の流れの中に飲み込まれていくのでしょう。

貸金庫の闇はそのまま日本のシステムの闇の中に繋がっているような気がします。昨日も書きましたけど、法改正が無い限りこの闇を照らす光は現れないでしょうね。マスゴミも下らない事には熱心でも、本当に大事なことは己の関わる闇を照らす可能性を恐れて騒ぎませんので。

2024年12月15日日曜日

貸金庫騒動ヤバスw

銀行には貸金庫というサービスが存在します。

商売してる人間にとっては普通に使うだろうし、お金持ちの方々にとってはいろんな「大事なモノ」を隠しておく特別な場所なのでしょう。使っていないので知りませんが。
銀行にとっては恐らく今の時代負担にしかならないと思われるこの貸金庫サービスもお客さんを自行に繋ぎ止める大切なサービスの一つなんでしょう。きっと。w

さて、今回三菱UFJでどデカいパンドラの箱が開きましたね!

三菱UFJの40代の女性行員が、この貸し金庫の担当者としてやりたい放題。予備鍵を使ってこの管理責任者であった女性が4年半にわたって(今申告されている判明分だけで)合計十数億円が盗まれて投資等に運用されたとのこと。

この最大の問題は、本来であれば銀行の口座に預けられている筈のキャッシュが何故ソコにあるのかという事なのではないでしょうか。例えば慶弔事で札を云々という話をしたと嘯いたところで、必要な額は恐らく100万も要らない筈。大人が普通に考える貸金庫内の「大きな現金」は通常「おもて」に出しておきたくない、税務署や警察関係から見つけられたくない類のものではないかという話。

反社会的な組織に所属する人間や個人は恐らく口座を持てないでしょうから、他人の名義でこういう口座を持って利用するでしょうし、他人から又借りして一定の金を払って貸金庫に金や換金可能な資産を持つことでしょう。俺ならそうします。(<隠す金も無い反反社人間の戯言^^)

そう考えると、被害届を出さないのではなくて、怒り心頭であっても被害届を「出せない」人間が相当数居るんじゃないかという気が致します~。

今回、UFJで詳らかになった事件ですが、果たしてこれは大手行も含めて貸金庫に関する同様の件で「初めての事件」なんでしょうか?違うと思うのは私だけですかね?政治家自身がこういったサービス、というかシステムを己の隠し財産に使っているのならこれ以上事を荒立てたくないから銀行法の改正は無いのかな。

魑魅魍魎の絡まってくる貸金庫という世界がソコにあるような?

2024年12月14日土曜日

年賀状どうしよう

今年も嫁さんが手際よく年賀状を準備してくれて、私は文言を書き添えるだけになっています。

JPにはそういうサイトがあるんだそうで、自分で住所を入力しておいて、この人は出す・この人は喪中だから出さないとか言う感じでクリックして、年賀状のデザインを選んでいけば後は郵便局の方にその仕上がった印刷された年賀状を取りに行くだけでいいんだそうです。

まあ、こういうデジタル・サービスまでやっておかないと今時の人たちは年賀状なんて出す訳もなくただでさえ敬遠されがちな年賀状作成と年賀状出しが絶滅することになってしまう事になるのでしょうか。新宿会計士さんのウェブサイトを見ていたところ、2004年の発行枚数44億枚台をピークとして淡々と直線状に減少しており、2024年分は15億枚を切るまでに減少しています。ということはこの20年で1/3にまで減少していることになり、まるで新聞のような減り方ですが、新聞以上に急速に萎んでいる感じですよね。

そもそも私の周りでも、年配の方々を中心に「今年を以て賀状仕舞いとさせて頂きます」という人もほぼ毎年出ておりますし、連絡手段がe-mailそしてLINEに移ってきてからはますます年賀状というものが脇役になっていくばかり。そもそも日頃からLINEでテキストや音声で連絡している相手に改めて年賀状出すか?という話です。

そんな相手には「アケオメ・コトヨロ」くらいでも十分なのも解るような気がします。^^ しかし、こういった電子的な挨拶や会話は確実に消えていきますけどね。まあ、死ねば人間終わりですから大したことではないのかも知れませんが。

そういえば、官製年賀状というのは1949年から始まっているらしいのですが、こういう習慣もお歳暮なんかと同様に今の年寄りが消えていくのと歩を合わせるように消えていくのではないでしょうか…。

新宿会計士さんの予想カーブを見る限りでは、この減少速度からすると恐らく2032~4年前後には年賀状というモノ、制度自体が消えていくような可能性もあるのではないかと思えました。

まさに時は移れりですね。とは言えクリスマスカードも年賀状も、何十年も前のものが物理的に残っているのを見るとそれはそれで素敵なものなんですけどね。

2024年12月13日金曜日

年末の大掃除時ですが

気がつけば今年もあと三週間も無いというビックリ状態。

そろそろ家の中だけでなくいろいろな場所を一旦は見直して掃除する頃合いになってきたかな?などと考えてしまいます。いつもそこそこには片付けているつもりですが、やっぱり一旦全体を見直してみるという作業があってこその日常。

基本的に大掃除をしたところで毎年家の中のいろいろなものの外観の片付き具合というのは大きくは変わらいのが私の家の大掃除の特徴。

私の場合の掃除の基本は(多くの人もそうやっていると思うのですが)いらないもの使わないものの廃棄。この時の取捨選択というのは何時も私を悩ませるのですが、一年間経っても全く出し入れしていないものや今後の生活を想像しても二度と使わないだろうなというもの、更にはそもそもそれが何の為にそこにあるのか思い出せないようなものを中心に廃棄していきます。(あんまり多くはないんですけどね)

もう一つ我が家の場合、家にあるものの中でそれを片付けることで容積を減らせるのは「衣服類」です。通常季節毎に片付けて病院に持っていって、服を持っていない患者さん達の為に我が家の「性別や年齢」の異なるいろいろな衣服類をあげています。要らないものを…というと聞こえは悪いのですが、実際に患者さん達には役に立っています。^^

さて多くの場合、私の掃除は書類の片付けと本棚の掃除…なんですが、本棚の掃除をしても息子が直後に「自分なりの法則」に従って片付け直してしまうのです。いくら私が自分なりに綺麗に片付けたつもりでも、サッサと自分の気になる本を抜き取ってベッドルームに持っていって平積みにしてしまうのでした。w

という訳で、我が家では小さい子供が居る家のように毎年おなじ戦闘が繰り返されるのでした。所詮、モノの形はエントロピーの法則に従って崩れていくもの、それを加速させるXファクターが我が家の場合ムスコとはなりますが!

何歳になっても小さい時のまま同じ作業をさせてくれる自閉症の息子は考えようによっては俺達両親を老けさせない大事な宝物です。^^



2024年12月12日木曜日

神経解剖学という難しい世界

昨日、学生時代の解剖の思い出を書きましたので、ついでに他の授業のこともちょっとだけ書いておきたいと思います。

今でも記憶に残るのは神経解剖学。(全身の系統解剖とはまた別)脳を大脳・小脳・脊髄・そして末梢の神経支配へと筋道立てて繋げながら、どこがどう繋がっているという夜店の紐を引っ張ったらあの景品が取れる!みたいにしてストーリーを語っていくのです。

もう全くもって授業等には出席していなかった私の場合、他の出来の悪いいつもの麻雀仲間(主にラグビー部とボート部)とともにほぼ知識としては壊滅状態の状況で、その知識レベルは試験直前数日の詰め込み程度ではどうにもならないのです。なぜならば、組織切片を使った試問まであるため!

というわけで、一回目の試験はほぼ白紙。(私はラグビー部でしたが、他のボート部員もほぼ白紙)しかし、何とこの試験で800点満点をとった凄い人物が現れました。何故かこの人物一回留年していたボート部の人物で、同じ学年にもちろん他のボート部員もおりますので、満点の一つ上の先輩とほぼ白紙の私の同級生が同じ船に乗っている状態でした。w

最終的にはこの人物、4年後に見事「神経内科医」になるわけなんですが、このとき京都大学出身のこの神経内科のI教授曰く「僕も長く神経解剖を教えてるけど、実習も含めて満点だったのは彼が初めてだ!」とホクホク顔でした。

まあ、伝説誕生というわけでした。^^

「得手に帆揚げて」というのはこういうことなのでしょうが、問題はゼロ勉で試験に突入していったあとの我々ボンクラ組の再試の準備。試験の傾向と対策を練ってボンクラ組で集合。どうすれば最小限の手順で最大限の結果を出せるかということ「しか」考えない究極の怠け者共の集まりなので、幾つかの山をドドーンと張ってそこだけに集中。

最終的にはギリで抜け出せましたが、一発満点の先輩とは月とスッポンという情けない結果でした。もちろん神経内科医などを目指すのは最初から諦めて最低ライン突破だけで次の学年へと進んだのでした。

┐(´д`)┌ヤレヤレ 馬鹿すぎます。

2024年12月11日水曜日

解剖実習の記憶

養老先生のお話がネットの記事に出ていたので、自分の頃の記憶を断片的に書いてみました。

医学部の外の世界の人には医学部における解剖実習なんて言うのはどういう世界なのか全くわからないでしょうし、私自身も他の医学部ではどういった感じの解剖実習というものを行っているのか実際はよく知りませんので、己の経験しか書くことはできないわけです。

我々医師にとっての妥当性のある近代解剖学というのは16世紀初頭のベルギー人であるヴェサリウスに始まると考えるのが妥当だと考えられます。西洋絵画の中に出てくるようなたくさんの人間が一人の遺体を解剖する人間の周りに集まって人の体というものを解剖しながら理解していくというのが、医学教育としての近代解剖学の始まりで、床屋兼外科医の延長線上にあった人々の知識に深みを加えていくわけです。

その大先輩方の苦労の集積を辿る形で医学部の解剖学というのが授業として行われるわけですが、我々の頃は4人で一人の御遺体を解剖するというのが標準形でした。ほぼ40年前の出来事ですから、今はどうなっているのか知りませんが、少なくとも当時はそうでした。

解剖の実習が始まる前にそれぞれの献体が亡くなられた死因の簡単な説明や、解剖にあたっての心構えなどの説明もありました。

実務では上半身・下半身という感じで解剖の担当が分かれていて、私は男性の御遺体の上半身を担当させてもらい教科書であるグレイ解剖学の図譜に従うように解剖を行いながらの実習でしたが、御遺体によって時々見つかる変異(ヴァリエーション)を見つけては教授や講師の先生に報告していました。多かった変異は馬蹄腎や血管走行のヴァリエーション。特に血管走行に関しては教科書に書かれているのは最も標準的なものであって、中には走行がdualであったりするものが稀ならず見つかったものでした。

解剖の実務は実際に解剖それ自体よりも「臭い」というか保存剤のマテリアルであるホルマリンに悩まされました。最初の頃から刺激臭が鼻腔に襲いかかってくるわけですが、最初は慣れたと思っても、私の場合は今度はある一定時間以上御遺体に向かい合っていると物理的に不味いレベルでホルマリンによる鼻腔の刺激痛がしてくるような事態に陥っていました。

それでも、昼休み時で誰も居なくなってしまうような解剖実習室で皮を外し神経の分枝や骨を露出した状態になっている首だけになった献体と向かい合っていてもそこには恐怖・ホラーなどというものは存在せず、その方が生きていた頃はどんな事をしていたどんな方だったんだろう?というような生の空想のほうが支配的になるのですから不思議なものでした。

今の時代、貧しさ故に自分の体を葬式に出せずそのまま献体登録して最後は合同葬にしてもらうように仕向ける人々が多いとか多くないとか…。我々の頃は当時、不老会という献体組織が大学にあり、病院やその他からの献体集めがなされていたというのですが、国立ではそれほどではなくとも、私立の医学部では献体集めは大変で解剖実習も8人で一献体などと言うことも噂で聞いたことがありましたが、今はどうなっているのか…。

臨床で医者になっている今だからこそ、解剖実習というものに改めて参加して人の体に関してリアルに学び直したいと思う還暦直前のオッサンでした。

2024年12月10日火曜日

カラオケ行こ!

今日まで知りませんでした。

つい最近、綾野剛の出ている実写版の「カラオケ行こ!」という映画を観たのですが、観た理由は単純で、Netflixが私の映画やドラマの視聴履歴から勝手に推測してくれて「コレなんかどうでしょ?」という感じで推薦して来たもののうちの一つだったというだけの事。

しかし、このカラオケ行こ!を観てみたらシンプルな筋書きなのに設定と配役が抜群にマッチしていて、観始めたら止められない感じで最後まで一気に通して観てしまいました。

いつも通りネタバレ関連の事は一切書かずに話をしますが、劇中でメインの歌として登場してきたカラオケ練習曲であるX-Japanの「紅」が頭から離れなくなってしまいました。そもそもX-Japanって小泉元首相が大好きだったグループだったよな?確か世界的にも有名になったグループだったような?そして一番薄い、そして間違っているかもしれない記憶は、なんかたけしの元気が出るテレビかなんかで大昔にとんでもない貧乏バンドマンていう感じのなんかコミックバンドやってるみたいなヘビメタ風の若い男達がX-Japanっていうのが出ていたような????

結局のところ、私のX-Japanに関する知識とも言えないような知識はこんな薄っぺらで頼りのないものでしかないんですが、この紅を歌うlittle glee monsterを中心として歌われる映画の最後の合唱版のエンディング・ソングが一日中頭にこびりついて離れません。w
(little glee monsterというのもどっかで聞いた事があるという程度で、そもそもおじちゃんはLittel Green Monsterだと思っていました。(^_^;))

映画やドラマにおいて脚本の大本になる原案が大事だというのは百も承知のはずでしたが、何とこのカラオケ行こ!はそもそもそのスタート地点が2019年のCOMITIAという同人誌販売会から始まったものだという事を知り、その出自に二度驚いたのでした。

でもやっぱり、どういう形であれ、そしてそれがどんな形式の作品(音楽、小説、漫画、絵画)であれ、それを気に入った人間が沢山増えて、止まらない勢いがついて伝説が小波のように拡がった最後に、こうやって大きくブレークするのは良い時代になったもんだと思います。

これはネット社会の一つの「良い側面」だなと感じた私でした。紅だ~~~!

2024年12月9日月曜日

韓国人ヘルパーさんの焦燥

病院内の私の管理する病棟の一つで真面目に働いている在日歴何十年のヘルパーさんが居ます。

元々はソウルの江南で生まれ育って成人した後に日本に来た方なんですが、働き者でシャカシャカとよく動く元気なオバサンです。言うことは言うけどきちんと手も動かし働くという「言うだけの事はある」人物です。

時々場面にあった生の韓国語を教えてもらっては覚えるようにしているのですが、頭の回転も早くいつも話が面白い。しかし、最近このオバサンの顔が非常に疲れ、口数も少ないように見えるのでした。こういう時は何があったのかと心配するのですがそこはこのオバサンといつも話を良くする私。何となく見えていました。

恐らく彼女の表情を暗くしているのは「母国の政治状況」だと睨んだ私は、彼女に「尹さんやらかしたね~」と話しかけたところ、クルリとこちらを振り返って怒涛のように話す話す。止まりません。^^

彼女の話をまとめると、あの北朝鮮とつるんでいる左派政権がこの状況を利用しない訳がなく、来年の春過ぎくらいの段階で返り咲いてくる左派の碌でもない奴らが韓国を「また」メチャクチャにすると言って怒りと不安で夜もよく眠れないというのでした。流石は「熱い」血を持っているなと思うのですが、彼女といつも立ち話で話す韓国の政治状況というのはまさに北朝鮮との対決を意識したもの。

長年日本で暮らしてきた彼女にとって日本の悪口をほぼ因縁レベルでつけてくるあの連中がひとまとめでお気に召さないようで、そういった面でも彼女の怒りは沸騰するのです。

同じような日本擁護発言は日本人として日本で暮らしている残留孤児の子である日本人看護師さん(御主人は中国人)も同じで、中国の事を日本のニュースを通して眺めている御夫婦は最近中国の事が心配だし、政治のシステムが嫌いで嫌いで堪らないという話。

やはり人と云うのは「自分の住んでいるところ」「身近に居る人」というのが好きになるものなのかなと感じた次第でした。まあ、韓国人のオバサンの場合は単に左派の滅茶苦茶な亡国的な活動が嫌いなだけみたいですけどね。

まともな知性があれば、伊さんの謎のイカレタ戒厳令もオカシイと思うでしょうし、あの左派の売国奴的な行動も到底許しがたいと思うのは当然なんでしょうけれども…。

外国人として他国に定住する事の厳しさを乗り越えてきた逞しさのある人達の発想はやはり温(ぬる)くは無いですね。

2024年12月8日日曜日

息子の体重コントロール

息子の体重は私達親の責任です。

自閉症の息子には喜びが幾つかあるのですが、その一つは明らかに食べる事!当然我々親も当然の様に美味しいものを食べることには喜びを感じる人達なので、息子と外に食べに行っては一緒に舌を喜ばせるものを味わうという行為は我々の日常です。

実は値段とかには全く拘りはなくて「美味しいものは美味しい」という結論の部分だけブレがなければA級だろうがC級だろうが何でも食べてしまう我々親子。そういう何でもござれ的な感じで栄養を吸収し続けるためかなりお腹に肉がついてしまう今日この頃…。

息子の体重は昔から嫁さんがコントロールしているところがあって、少し腹に肉がついてきたらお菓子は無しにするとか、夕ご飯を少し絞るとかすると(若さのおかげ?)あっという間に体重コントロールができます。(私が同じことをしてもほぼ効かない…<加齢の影響か?)

息子の食べ方には私には無い特徴があって、その差は食べる速度。せっかちの私がシャカシャカと皿の上の食べ物を平らげていくのと違って「非常にゆっくり」とものを食べます。それは朝食・昼食・夕食を問いません。不思議なんですが、これだけは小さい頃から全く変わらず眼の前にある食べ物をジックリと味わう姿勢はせっかち食いの親父として見習わんといかんなと反省することしきり。それでも、やっぱり治りませんが…。

食べる速度に関しては息子はイタリア人ですね。実に幸せそうな顔をして食べますので。

唯一息子と私の間で同じ様に食べる食べ物?と云えば「飴玉」ですね。これだけはふたりとも口に入れた直後にボリボリと噛み砕いてしまうというクセがあります。せっかちで堪え性のない私の場合ならさもありなんで住むのですが、これだけは共通ですね。この点はいつも嫁さんに呆れられています。

嫁さんに取っての息子の体重コントロールの目安は体重計+体型変化。特にお腹のほうがコンモリしてきた時に嫁さんなりのプログラムを発動させるようです。私自身は彼女のプログラムの詳細は知らないのですが、確かにココぞという時には確実に息子の体型・体重を正常化させますので、何かのコツがあるのでしょう。

ただし、私に対しての体重減少プログラムは効果が無いようです。

2024年12月7日土曜日

シリアに大変化は起きたけれど

あっと言う間でしたね。

今回のバッシャール・アル・アッサードの終焉は結局のところロシアがウクライナ侵略であっぷあっぷである事を当然の様に見抜かれた反政府勢力に「蹂躙」され、かつ政府軍内部からも幾分反旗を翻されて終わりというまことに以てシンプルな構図でした。

今迄はロシアに何度も何度も助けられ、イランも裏側にきちんと立って支援、またあの立派なテロ組織ヒズボラにさえ支援されていたシリアですが、イスラエルがこの時期にヒズボラをボコボコにしてしまったのも大きかった。しかも、トルコのエルドアンはこの反政府軍にクルド系の熱い血を持った連中を核として支援し続けた事も大きい要素だったな~と感じます。

そもそも、トルコなんて自国の異様な物価高で他国への干渉に力を貸すどころの状態では無いはずなんですけど、まあこっちはこっちで立派な独裁者ですからそんな事は歯牙にもかけていないんでしょうな。^^

眼科医としてのキャリアをスパッと捨てて独裁者である親父の後を継いだバッシャール。彼の名前の響きが良いので、随分前からこの名前をフルネームで覚えていました。親父が屑なら子もまた屑という悲しい独裁者国家はどこかのアジアの半島にもありますが…。

巨大都市パルミラ、古代都市ダマスカスのウマイヤド・モスク、大規模なスークと城で有名な神秘のアレッポ。世界遺産尽くしのようなこのユーフラテス川沿いの歴史の交差点の名所が戦闘で破壊し尽くされる前に政権がぶっ壊れます様に~と心から祈っていたのが天に通じたのかもしれません。w

イスラム教徒とキリスト教徒がそれこそ血で血を洗う様な戦闘を繰り返しながらスプラトゥーンのような色の塗り直し作業を繰り返したこの地が再び反政府勢力という魑魅魍魎を掻き集めたようなイスラム教徒の集団に奪還されました。

同じような光景はタリバンによってももたらされた記憶が真新しいのですが、当初融和姿勢を見せ「それらしく」振舞っていた連中が今はどうなっているのかを見るにつけ、シリアの未来がそんなに明るいものでは無かろうな…という気がするんですけどね。

今のところは対岸の火事と言いたい所ですが、韓国の来年の事を思うと先が思いやられます。

ヤレヤレ…。



2024年12月6日金曜日

今日は医者四人で忘年会

自分の主たる勤務先の医師とは夜の交友においては疎遠です。

そもそも私は精神科医ではありませんし、その精神科医も女医さん若しくは話の合わないレベルの(私から見ても)爺ちゃん先生だったりしますし、同じ科のもう一人は完全なアスペの先生で、飲み食いする時にズルズル・クチャクチャというお方ですので、こんな人物と金を払って外で飲み食いするなど完全に想像の外の世界です。

今回集まったのはバイト先の病院の先生方。皮膚科、精神科、眼科、そして自分が内科ですからやってる事が全然違うし専門性も全くバラバラ。しかし乍ら、それが楽しいという感じでしてお互いの世界をお互い良く解らないからこそ、お互いの世界の話を良く聞けるという感じの集まりです。

理想を言えば全く知らない世界の人間が集合する方がよっぽど面白いのですが、まあこれ位までの集合体ならオモシロいというものです。

今回集まったのは池下にある「探さないと見つけられない」ようなお店でした。とは言っても小さめの表通りに面した店なんですけどね。通常は会費が5~6,000円程度のお店に集合してヘルパーや看護師さんも集まりその人達の分も医師側が出してあげる…という感じの事が多いんですが、今日は医師一人の予算が大体一万程度で!という感じの集まり方。

6:30に集合してメニューを眺めながら酒や肴を次々注文。特に刺身は絶品で、この時期の良く脂の乗った魚の切り身が次々に出て来るので私自身は心の中で「おお、これは大当たり!」という声を出していました。長崎から寄せた食材もメニューに入っていてそれもキッチリ出て来ました。これまた絶品!こんな美味い魚を出せる郷土長崎を密かに誇りに思えました。

実は昨日嫁さんと飲みに行った時の日本酒パンチが効きすぎて朝起きた時はもう小脳失調かというレベルのグラつきが残っていました。w

最終的に酔いが完全に冷めたのはなんと午後二時ぐらいでしたので、今日は前もって組み込まれていた忘年会とは言え酒はサングリアとかレモンスカッシュのナントカという様なまさにお酒の弱い女の子が口にするような飲み物でしたので、今日はアルコールはセーブという目的は達成しました。

家に帰り着いたのは9時前。何とも早い御帰還でした。^^

2024年12月5日木曜日

嫁さんと連続で外出

今日は実に珍しい事ですが、嫁さんと二週連続の二人だけでの外出となりました。

今回も息子が外泊日でしたので、その合間に嫁さんが「食べに行くか銭湯に浸かりに行くか」という事で数日頭を悩ませた挙句の選択が今日の夜の行き先となりました。

結論から言うと本日二人で向かった先は銭湯ではなくて「食事」の方でした。しかも、今日地下鉄に乗ってその店に行けは「お父さんもお酒が飲める」という事で、再びの地下鉄アプローチとなりました。私自身も地下鉄に乗って移動するのは嫌いではないので即了承。

少し寒い夜となりましたが着いたのは今池。そしてお店は今池屋となりました。以前も家族全体では食べに来たことがありますが、私の場合は一人で食べに来たり友人を連れて食べに来たりするというパターンばかりで既に20回弱は来ている感じです。今回は開店の5時からでは無くて、私の仕事が終了してからの移動ですから恐らくしばらくは外で待ってないとダメだろうなという覚悟で移動しました。

ところが、今池駅で降りて今池屋の中を覗くとまさに丁度席を立とうとするおばちゃん達二人が席から離れているところでした。まるで我々が来るのを待って席を暖めてくれていたかのようなドンピシャのタイミング。^^

嫁さんと鉄板を挟んで直ぐに座ったところ、お手伝いのお嬢さんが直ぐに注文を取りに来ました。するとどうでしょう、目の前の嫁さんが淀みなく注文をし始めました。この手の事は私は何時も嫁さん任せなのですが、また予習復習をしてここにやってきたようで、滔々とそのメニューを喋り出しました。

苦笑を抑えながら半ば呆れて見ているとあっと言う間に注文終了。

結局、生チューが持ってこられた後はレバ、軟骨、エリンギ、ホタテの肉巻き、ミックス焼きそば等々を次から次に頼みながら最後に自分で日本酒を瓶ごとオーダーして一人呑み。機嫌よく店の大将と世間話をしながら味を、酒をと愉しんでいたら次の若いカップル二人が私達の後ろで待っていましたので席を立つ事にしました。(実際は隣の二人組がとっくに食べ終わっていたのですが、やたらと話すだけで去らないのでした…)

勘定を終えて寒空の中を嫁さんと二人で再び移動開始。結局向かったのは先週も行った私の隠れ家。しかし、これでは隠れ家になっていません。orz

到着したら温かく迎えられ、カウンター席で呑みなおし。私は古酒を、嫁さんはノンアルの飲み物を頼んでまた少しずつ食べ物を注文しながら緩い時間を過ごしました。

奥からはこれまた滅多に出てこない筈のGさんが出てきてご挨拶をして下さいました。その上でまたヒョコっと厨房に引っ込んで行かれたのですが、なかなか嬉しいご挨拶でした!

比較的短い時間でしたが、二軒の店で今日も嫁さんと美味しい食べ物と酒を愉しめました。
また行くかな。^^

2024年12月4日水曜日

103万円の壁にやられたorz

これか~~~~~~!!って感じでした。

今、巷で噂の103万円の壁という奴に刺されました。ぜいっむ所から私がお世話になっている税理士さんの方に連絡があったようで、私が扶養控除の為に扶養家族として入れていた次女の収入がイワユル103万円の壁を2万円分超えていたのではないか?という質問があったようです。

次女が私に渡していなかったのか、私が次女から渡された分を提出していなかったかのどちらかなのですが、私は娘のバイト先の源泉徴収票を一枚は確実に貰っていてそれをそのまま提出していたので、恐らくは娘の方だと思われるのですが、まあここは水掛け論になるので脇に置いておいて…。

さて、103万円の壁から2万円超えていた事により扶養家族から外れて十数万円の申告所得税及復興特別所得税という長たらしい名前の税金(まあいわゆる所得税ですね!)を追加支払いとなりました。

娘の2万円の所得超過の為に十数万円か…と考えると「何じゃコレ?」の世界で、世間の皆さまが気にされておられる「働き控え」の源はこれかい…というのを痛みを伴って実感させられた次第でした。そもそも娘が幾ら稼いでどうなっているのかという事を把握していないばかりか「このラインを超えたらアウト!」と云うのを意識していないばかりか、その当落線の線引きが幾らかというのを知りもしなかった私が完全に悪いんですよね。

今迄、嫁さんが全く金銭を設ける様な働きが無い専業主婦なので、そういうことを知らなかったというのが正直なところなんですが!

はあ、やられたやられた!!!!!

まあ、これじゃあ損得勘定を考えて一家の稼ぎ頭の為に「わざと」働かない人間なんてゴマンと居るわな~と考えた次第でした。

2024年12月3日火曜日

ここしばらく考えていた事

実はアメリカ大統領選の結果が出た後サッパリと選挙のこと自体を忘れていました。

直前のセンサスを見る限りではトランプの大勝だなと思っていて、結果もその通り。ですから、結果自体は勝ち負けが見えた時点でもうどうでも良くてハイハイ予想当たり!という感じでアメリカ大統領選の事はチョン。

しかし、ここ数日何故か頭の中でグルグルグルグルとある疑問が浮かんでは消えを繰り返していました。それは「何であんな普通に考えればトンデモナイとしか言えないような男が勝つのか?」という疑問の自分なりの答えが欲しいという気持ちでした。

ヒトラー礼賛の記事や売春婦に関する下司なひそひそ話のリーク、そして己の根拠なき妄想をあたかも確信のように語る独裁者としての資質タップリの話等、ネガティブな面は枚挙に暇なく…というレベルの男。それでもアメリカ大統領選では勝利。

資金源の豊富さで到底ほかの候補は太刀打ちできず、共和党内でも最初からほぼこの男でという空気が作られていましたが、そもそも宗教の教祖と云うのはこんな感じで自分に全能感を持つ輩に付いて行く集団から始まるというのを淀みなく証明してくれる21世紀版の一例だな~と想えたのでした。

しかし、それだけでは何故という当初の疑問には答えていません。そこでいろいろと考えてみたのはその対比。カマラとは人種、そしてキャリア形成でのワシントンD.C.のエスタブリッシュメント達との距離等ありとあらゆる部分で「アメリカ建国前後に新大陸に集った食いはぐれた白い人々を中心とした田舎者」を共感させることが出来なかったという事でしょうか。

でも、それでも全部は説明できない。じゃあ、移民と経済への対策に対する支持の差?ありとあらゆるモノの値段が上がる中で、日々の生活で明日が見えない人々の持つ怒りがバイデン民主党政権への反感として出てきた?うーん…どんなもんなんでしょう。それも決定打ではないような。

そこで私が自分なりに納得した全てを包括すると思われる結論はpolitical correctnessに対する強い拒否感ではないかというものでした。要するに理屈の上では正しいけれども、それが日常をアメリカの中だけで過ごす普通のアメリカ人にとってフェアかつcorrectなものかという疑問と、そのcorrectnessの存在が日常生活を維持する上での経済的な面、日常生活の多くのシーンでの自分の生活改善には当てはまらず、やって来る今日よりよい筈の明日から置き去りにされる材料となってきたと感じる人達がトランプじゃないけどカマラを選ぶくらいなら…NONカマラという感じで今回の結果が出たのではないかというものでした。

私は選挙やアメリカ文化の研究者では無いので細かい分析などは出来ず、断片的な記事や結果、自分のアメリカでの生活体験からしか話を語れませんけど、いわゆる左派という連中が叫ぶイデオロギー(political correctness)のもとに形成される窮屈さに対する反動なのではないかと云うのが結論でした。

やっぱアメリカの背骨はカウボーイが持ってたマッチズモなんでしょうかね。

2024年12月2日月曜日

ストレスだったんだ!

今日、病院の階段を降りている途中で女性の看護師が一人で嗚咽していました。

余りにも激しく嗚咽しているので驚いて足を止めて、思わず見てしまいました。相手も私が後ろにいる事に気付いたのですが、彼女の嗚咽は止まりません。基本的には病院におけるこういう「女性が一人で泣いている」という様な場面は師長さんに怒られて離れて泣いているとか、同僚のいじめに遭って云々等というパターンが殆ど。

しかしながら、ここまで嗚咽が激しいのは普通は無くて精々シクシク程度なので、これは何か深刻な事が起きたかと思って「大丈夫?」と声を掛けました。それでも嗚咽は止まらず泣き続けていました。嗚咽しながらも「大丈夫です」なんて言われましたので、そのままその場を立ち去りました。

ところが全くの偶然だったのですが、その二時間ほど後に看護部長室からその女性が出てきたのでした。もしかして?と思って部長に先ほどの話をしたところ、実は新型コロナの患者の居る病棟で働く事のストレスに耐えきれなくなって、病棟から出てきて階段で泣いていたとの事…。

「そういう感じの出来事って実は時々あるんですよ」と云う意外な言葉が部長の口から出て来ました。

やはり、強いストレス、恐怖と云うのは人をして感情のコントロール下から外れてしまうという事は有るのです。PTSDもそうですし、心の底から湧き上がる焦燥感と云うのはその人の人の殻を剥き取ってしまうのです。閉所恐怖症や広場恐怖などは判り易い例ですが。

今日の看護師さんの姿を見て、人の感じた恐怖というものをソレを感じない他人がああだこうだと論評する事は出来ないという現実を改めて肝に銘じたのでした。

年齢に関係なく、状況に関係なく、人間の感情を恐怖で押し流す状況下で仕事をせざるを得なかった女性の気持ちを考えると自分自身の「人の感情を推し量る力」というものがまだまだだな~と考えさせられた今日の出来事でした。

2024年12月1日日曜日

紅葉狩り

今日は昼から紅葉狩りに出かけました。

紅葉狩りなどというと、愛知県で有名なのは香嵐渓という所なんですが、ここはこの時期地獄のような渋滞が出現するのを私のような余所者でも知っておりまして、とてもとても昼から家を出てそこに行こうなどという気力はありません。

たとえ出て行こうとしても、到着する頃には数時間の渋滞に巻き込まれた挙げ句に着いた頃にはヘトヘトでとても紅葉狩りを楽しむような状況ではないというのが既に目に見えておりますので、チャレンジすらしないという状況。w
到着したあとで車を停めるのに必要な数少ない駐車場もあっという間に満杯で、あとは私有地に誘導されるこの季節特有の高額私有駐車場を利用する選択肢しかありません。

ただ、到着したあとは実に素晴らしいもので、当たり!の季節であれば美しく色づいた紅葉の波の中で遠近感を失うほどの素晴らしい景色のなかに心をどっぷりと沈めることもできますし、夜まで待てば美しくライトアップされた景色を眺めつつ夜の川に流される青白く光る無数のボールの群れも見ることが出来ます。

しかし、今回私が嫁さんに誘われたのは意外に近い場所である東山動植物園。正直なところここが紅葉狩りに良い所だという認識冴えなかったのですが、名古屋では比較的有名な所の様です。

息子と三人で中に入ると早速進行方向の両方、特に左手には良く色付いた紅葉と銀杏の並木が見えました。
奇麗なんですけど、写真撮る私が下手です。
未だもう一段いけそうな感じですね。
あっちもこっちも真っ赤っか。
紅葉狩り!この幟を見た瞬間シャッター押しました。
五色池からの一枚。
光が当たると暗めの赤がこれほど美しく映えます。
植物園の中では色々な木々が混ざっている事がこの時期に判明します。
これも光が当たればもっと照り映える筈なんですが、この時は陰でした…。
園の中では動物園、植物園どちらにも行ったのですが、動物などは一顧だにせずひたすら三人でいろいろな屋台の食べ物の食べ歩きと紅葉狩り。w

日本で二番目に入場者の多い筈の東山動植物園でこんな事をしている家族もいるのでした。腹がくちた段階で地下鉄に乗って今度は藤が丘でリニモに乗り継ぎ長久手イオンに行き眼鏡を見たのですが、結局買わずにここでも和食屋に入って腹を満たすという食ってばかりの一日でした。

家に戻った時は腹がパンパン。嫁さんも夕食を準備せずに済んだ週末で何よりだった事でしょう!