2024年10月31日木曜日

何もないハロウィーン

アメリカも遠くになりにけりです。

私にとってのハロウィーンは子供達の年中行事としてのお菓子集め、そしてlabで働いている秘書のオバサン達のセーターがオレンジ系統の派手なものに変わる事、あとはWalmartでいろんなオレンジと黒のガラクタを大量に売っている事が記憶に戻ってくるくらいです。

そもそもがケルト系の土着のお祭りがキリスト教の侵入・布教に伴ってごちゃ混ぜになってアメリカで商業ベースに乗っかって広まった行事程度の認識なんですが、子供達にとってはお菓子を掻き集める良い機会だし、みんなが楽しければそれで良いよな!って位のものでした。

私にとってのアメリカにおけるこの季節は前にも書いた通り何と言ってもパンプキン・スープが滅茶苦茶に安くかつ美味く食べられるシーズンだという事に尽きました。めっちゃくちゃ安く売っている大量の、そして見た事も無い様ないろいろな種類のパンプキンから出来上がる素朴でとろける様な舌触りに毎年中毒の様になっていました。

朝昼晩、毎日三回パンプキン・スープが出てきたらそれが幸せの絶頂と云うくらい、あの頃バージニアで食べていたパンプキン・スープは美味かったと断言できます。これには異論は挟ませません。^^

しかしながら、日本でパンプキンと言えば基本的には日向カボチャですから、味が全く違う別モノ。あの味の再現は到底無理です…。どこかに行けば手に入るんでしょうが、って毎年おんなじこと考えてます。w

我が家では流石にアメリカ帰りの娘たち空け合って部屋はちょっとだけそのたぐいのものでの飾りつけをしていますし、犬もハロウィーン生まれに合わせてSpookyと付けたくらいですから、この日が今は亡き我が家にいたワンちゃんの誕生日でもある訳です。

そう考えると、あの震える仔犬だったSpookyを初めてジョージアに迎えに行った日は遠い日々になったな~。

2024年10月30日水曜日

前後不覚

やらかしてしまいました。orz

いい歳こいて…というのはまさにこの事で、家族に合わせる顔もありませんというレベル。

一年ぶりにリッチモンドで教授をしている元研究仲間が一時帰国してきて、毎度の如く私の住む名古屋に来てくれます。私は何時もリッチモンドの今の状況を面白おかしく聞いては酒を酌み交わし美味いものを口に入れているのでした。

また、そう云った研究所や大学周辺の興味深い話だけでは無く、当然の様にお互いの家族の事も話しますので、お互いの子供も既に全員が大学教育を終了し、仕事に就いたり研究をしたりするような歳になっておりますので、互いの子供達、奥さんの事なども話に出て来ます。

話を聞いたところでは家のローン支払いも終わり、リサーチも結構愉しんでいるような状況でしたので、私もニコニコしながら話を聞かせてもらいました。

さて、実は私が今回先生を誘ったのは名古屋で今も続く最も古い大衆酒場と言われている「大甚」でした。一度は先生を連れていかんとな~とは思っていたので、今回は良いチャンス。上にも書いた様に二人でこの古めかしい酒屋で確実に呑むためには3:45分の開店時に確実に並んでおかなければ不味いのです。^^

大尽に近づいて行った時に交差点で私の肩をポンと叩く人物が!その時振り返るとなんと本日のゲストである先生がニコニコしながら立っていたのでした。こちらも驚きましたが、向こうも偶々だったようで二人で横断歩道を渡り直ぐに店の前へ。今日は平日の水曜なのでそこまでは…と思っていたら3:10の時点で既に人が5人並んでおりました。w

そして開店時間には我々を含めて15人ほどが並んでいる始末。これだから酒飲みはダメなのです。(自分もですが…)

店の中に入って3時間ほどだったでしょうか、呑んで食ってを繰り返しながらあっと言う間に良い気分。次に移る河岸は既に頭の中で決まっています。それは歩いて数分の円頓寺商店街の中にある何時もの角打ち「お酒の神様」。今日も壁にかけてある銘酒を左端から順繰り呑んでいきました。

向こうの酒場から数えるとビールの大生一本と日本酒を7合くらい其々に吞んだところでしょうか、金を払って店を出たところまでは覚えているのですが、後は一体どうやって家まで辿り着いたのか正直覚えていないのです。orz

家のリビングのフロアで朝、朦朧とした意識の中で寝ているのは自分で判ったのですが、出勤前に気がついてみると奇跡的に電話も財布も先生から渡されたお土産も無くしておりませんでした!

しかし、朝の外来に多少の影響はあり頭痛は無かったものの、頭の中心がゆらゆら揺れるのが10時頃まで続いておりました。本当にダメ人間ですね…。あとでテキストを先生に送ってみると、先方も「久々にベロベロになる迄飲みましたが、何とか無事に神戸まで戻れました」との記述があってメデタシでした。しかし、私は先生とどこでどうやって別れたのか未だに思い出せないのですが…。

2024年10月29日火曜日

近くにBYDの代理店が出来た

先日偶然気がつきました。

長久手のグリーン・ロードと言われる比較的車屋さんの多い通りなんですが、トヨタ中央研究所に向かう道の左手に何気にBYDの代理店が店を出していました。

これでBYDの出店というか展示場所を見かけるのは二つ目です。一回目は栄の臨時展示場にBYDが置いてあった時、そして今回の本格的な展示場です。トヨタのお膝元である長久手の、しかもグリーン・ロードに店を出すのですからそれなりの覚悟を持っての出店なのでしょう。

逆に、BYDのお膝元の中国ではEV補助金の打ち切りによる劇的な販売台数の低下などが囁かれてはいますが、ジャブジャブ補助金でここまで大きくなり、しかも日本の10倍以上の巨大な人口を消費者としてバックに抱える国を甘く見てはいけません。

こういうのは「どちらが正しい」というのは全く関係無くて「どちらが強い」という勝負の世界ですから、このBYDがどれほど繁盛するのかは今後じっくり見る価値があると思います。

私が通りかかった時には週末にもかかわらず少なくともお客さんは見当たらない感じでしたが、これから何が起こるかは神のみぞ知るというところでしょうか。車の代理店が撤退するという事は少なくとも移動などを除けば余り見聞きしない話ですが、BYDは基本的にアノ国から来た完全外資の会社。

隣の韓国車の様に再参入しては撤退していくところもあります。外国の車を売るには厳しい特殊な国「日本」でこの赤い国の電気自動車がどうなるのかジッと見ていきたいと思います。

私が生きている間にBYDを買う事は無いと思いますが。w

2024年10月28日月曜日

好きなように生きて好きなように死んだおじさん

病院である患者さんが亡くなりました。

アルコール依存症で、若い頃から何十年もの大量飲酒の挙句に肝臓に腫瘍を宿しても早い段階で見つかった腫瘍。オペをすれば完全に取り除けるレベルの頃から敢然としてオペを拒否。硬軟取り混ぜた説得にも全く心が揺れることなくまさに「頑な」という感じの拒否が続いた末にどんどんと腫瘍は巨大化。

表皮からもその肥大した腫瘍が見える様な状況になった時も表情一つ変えず普通の、ごく普通の日常を送り続けられました。不幸中の幸いは癌性疼痛に悩まされる事が無かった事。最後に心電図がフラットになる瞬間まで本当に穏やかな状態でお話をすることが出来ました。

後で御親族にお話を伺ったところ、奥様を亡くされた後から「お酒を呑む」と云う行為に歯止めが掛からなくなったという事でしたが、心優しいこのおじさんはその損失に魂が耐えられなかったのではなかったのか。

淡々と酒を飲み続け、喪失の悲しみから逃れ、自分を治し延命するという行為からも拒否して奥様のもとへ旅立たれたこのおじさんの事を考えた時に、このおじさんが酒を呑み続けた事をその心情を知る術も無い我々外野があれこれいう事が出来るのか疑問に感じるのです。

上辺の事実だけを箇条書きで書き連ねれば、単にアル中のおじさんが酒に溺れた挙句に肝腫瘍を患ってオペを拒否して亡くなったという骨格だけしか残りませんが、その奥にある肉付けされた部分を知ると、物語りの奥行きがそんなに浅いもので無い事に気づく人も多いのでは無いでしょうか。

歳をとってくると解ってくる人の心の弱さや強さ、襞のなかに埋もれた物語に考え込んでしまう事が増えました。若かった頃には切り捨てていた部分に目が行くようになったのは成熟なのでしょうか?

自身は成長は感じてないですけどね。w

2024年10月27日日曜日

初めての東山植物園

いつもいつでも行くのは動物園ばかりでした。

東山動植物園というのはその名が示す通り本当は動物園と植物園が合体して広がっている広大な敷地です。この広さを一望という感じで実感できるのはモノレールに乗っかって園の中を周遊したときのみです。

しかしながら、通常我々がこの園の中で回るのはおそらく殆どの人が動物園のみで、小道を挟んで向う側にある植物園にはほぼ気持ちを向けていないと思います。統計的な数字は探してみたのですが、ちょっと探した感じでは見つかりませんでした。

そもそも、この園は日本で二番目の入場者数を誇るという「動物園」だという事はいろいろなサイトに載っているんですが、植物園の入場者数を年次報告書で見ようとしてもNot Foundと出てくるのみでちょっと困ってしまいます。

何れにしても、この動植物園はあのポピュリスト河村の名古屋市長就任前の段階で「東山動植物園再生プラン」というのが策定されていて、それに則って淡々と前進している施設なのです。尤も、このプランはバカ河村の登場によってそれを一旦撤回させられそうになったのですが、現在でも粛々と改装や改善が進められている「どっこい」プランなのです。

今回は嫁さんの勧めに則ってすべて行動。朝一番でアピタに行って全国駅弁セールに行って沢山の種類の全国有名駅弁を買い込み一旦家へ戻りました。そのあと嫁さんが「運転しなかったらビールが飲めるよ」という一言で地下鉄に乗ることを決定。

息子と嫁さんと三人でゆったりとした日曜の地下鉄に乗り込み東山動植物園駅で降りました。その後はいつものように息子の療育手帳を出して無料で親子で入園。動物園の中を通りながらコビトカバを眺めたあと入ってきたばかりらしいコモド・オオトカゲを見ようかなと思いつつ進行方向に見つからなかったので、そのままコアラを観て部屋を出てキリンポテトとチュロスを三人で食べて満足。

動物園はもうイイやという事で植物園へ一直線。人の出がグッと減って動物園の数分の一という感じになりました。いや、下手したら10分の一くらいかも?それでも、この静けさは逆に言えばデート向きかな?とオジサンは思ったのですが、御参考まで。w

移設された古民家や変わった世界中の植物の群れ、とても名古屋の中とは思えないほどの静けさの中に立つ鬱蒼とした高木の群れには驚きました。いやいや、やっぱり来てみるもんです。ただし、動物園のようないろいろな食べ物ショップなどは一つもありません!まあ、潔いレベルでスカッと有りません。^^

帰りは入ってきた門とは別の初めての門である星が丘門から出て帰りました。

あれ?折角車に乗って来なかったのに酒飲むの忘れた…orz

2024年10月26日土曜日

やっぱりワールド・シリーズって言うだけの事はあるな~

Dodgers vs. Yankeesの闘いというのは本当に見ごたえがあります。

歴史的にはこういったファイナルでぶつかり合う事の多い両チームですが、今のところは大谷自身の選択が正しかった事を毎日証明している状況ですよね。本当に良かった。^^

本日第一回目のドジャー・スタジアムでの戦いはあっと言う間にヒートアップ。逆転に次ぐ逆転で、観ているこっちが思わず立ち上がったりのけ反ったりするレベルの興奮する内容でした。

しかも、最後の最後のほうではベッツを申告敬遠で歩かせてからの満塁&ツーアウトというほぼ漫画でしか出てこないような「大舞台」設定。まったく以て持っている連中というのは漫画を現実の世界に持ってくる能力があるのが良く解りました。

そしてその上での元故障者であったフリーマンの打席にアニメを超えた世界が登場。カルロス・ロドンの渾身の一球を縦スイングの一閃で右スタンドに叩き込むヒーローっぷり。一瞬でドジャー・スタジアム全体が興奮のるつぼと化しました。当たり前です。ベンチの選手もコーチも監督も、もう信じられない!という表情と共に飛び出して来てホーム・ベースの上で狂喜乱舞していましたが、これで野球人気は暫くは大丈夫じゃないかと強く思った次第です。^^

凄いものを見せられたら必ずその一瞬を記憶に刻みつけられて大きく育ってくる子供達が居るものです。私は日米、そして中南米ともにそういう子供達が今日の一発で確実に覚醒したに違いありません。十数年後が愉しみです。私が生きていたらそういう事を語る子供達が登場する瞬間をきっと見る日が来る事でしょう。

野茂の活躍が、イチローの活躍が、ダルビッシュの活躍が本当に若い選手達を次々に生み出してきたように、彼の国ではこんな一発が次世代を育てるのでしょうね。(勿論、これを視ていた野球好きの日本の子供達もそうでしょう。)

日本の野球のレベルの高まりを見て「ワールド・シリーズ」というネーミングがイマイチ嫌いでしたが、今日ばかりはそれを納得させられました。

アメリカン・ヒーローは未だ健在でした。(フリーマンの病気の息子さんのことを考えるとスーパー・アメリカン・ヒーローと呼んで良いと思います)

2024年10月25日金曜日

このトラップは知らなかった

携帯はDoCoMoを使っています。

契約はahamoで、20GBが毎月使えて5分間の通話が無料という契約内容だったのですが、つい先日料金の変更無しに勝手に毎月のデータ量が30GBに増やされていました。まあ、これはこれで有り難い事ですが…。

しかし、この契約には私の全く知らなかった事実がありました。確かに今のこのahamoでは私がiPhone15Proを使っていると普通に4Gや5Gが通信品質を示す右上のアンテナマークの所に良く5Gが出てきてくれます。しかしながら、この5G、何故かピタリとページの更新が止まるのでした。

以前もブログで5Gのメリットが感じられない事を文句として書いたのですが、実際auやソフトバンクでは自社のスマホの中にその通信品質を各社に解析用のfeedbackとして送り出す仕組みを持っているとの事で、5Gになったからといってそのパイプラインが詰まる様な事はありません。

ところがです、これは単純なは話ではありませんでした。

娘がPCを探しに行った時に一緒に電話を探した話を少し前に書きましたが、この時℃のプランを選ぶのが現実解としてベストなのかを店の担当者と話した時に説明されて判ったことがあったのです。それは同じ5Gでも、ahamoの5Gと一つ上のeximoの5Gではその繋がり方に差が付けられているというのです。orz

その男性店員は「eximoでは通信の詰まりはほぼ無いで(# ゚Д゚)すよ~」と、笑顔で言われてしまいました。私の頭の中では「マジかよ…」という言葉が反響するばかり。全くそんな事一言も聞いてないよ~と言うのが正直な所。やっぱり高い金を払っとるほうに太めのパイプを開くのはまあわからんでも無いんですが、ヒトコト言えよなって感じですわ。

しかし、そんな事せんでもエエように品質上げろよ!(# ゚Д゚)

2024年10月24日木曜日

日本の野球はどうなる?

サッカーもそうですが、野球も「本場」というのがココ日本では無いところにあるというのは明白。

日本の国技は一応相撲?なんでしょうかね。何かあるページにはこういう事が調べられていますけど、意外と法で定めるレベルの国技というのは少ないもので結局のところ「みながその国で熱中するその国では有名な、その国が発祥と言って良いレベルのスポーツ」という所なんでしょうね。

そういう意味では似たり寄ったりの違う呼び名のスポーツというのはいろいろある訳ですが、日本では相撲以外にはやはり柔道や剣道も入るでしょうね。お隣のアノ国が、アレもウリナラの~、コレもウリナラの~というのは放っておいて、取り敢えずアジアのみならず、世界のどこであっても、人間が居てそれが1対1だったり多対多だったりした時に、ボールを使うか他にも道具を使うか、ゴールを何にするか等で似たような競技になっていく様です。

しかし、その中でもサッカーと野球は特に今の日本には国技レベルで親和性が高く競技人口の多いものでは無いでしょうかね。ところが、その競技二つともがトップ中のトップの選手達はかなりの確率でヨーロッパやアメリカに行ってしまうという話。

そうすると、どうしても今日本国内でプレーしている選手達は?…となるのでしょうが、サッカーはともかく、野球はまだまだ世界で十分戦える凄い選手がうじゃうじゃ日本国内に残って居る様な…という気もしないでは無いのですが?

しかしながら、プロスポーツ選手が海外で活躍するにはスポーツでの身体能力以外にも、少なくとも食事の調達やホームシックにならないメンタリティ、そして言語の壁を克服する能力が求められるでしょうから、それがコントロールできない人達は凄い能力を持っていても基本日本に戻ってくる状況になるのでしょうか。

日本では凄くて海外では…の代表に昔はジャンボ尾崎が居りましたし、最近では挑戦者が多い分だけ凄い人、凄く無い人も含めて枚挙に暇がない様な状況になってきていますし。

それでも、大谷のようなユニコーンの存在が海の外にある事が眼の前に提示されると、やっぱり日本を飛び出して行った飛びぬけた人達の存在は当然の様に相対的に日本国内を一段低くしてしまう様な気がしてしまいます…個人的には。とは言えそれぞれのスポーツの本場でそういった挑戦者達が大活躍を続ける事で、日本にいる若い世代がそこを目指して山を登り続け、次の高みを我々に見せてくれればより嬉しい事ですけどね。

今後も日本がそういうハイレベルの選手達を送り出し続ける養成場になるのだとしても、結局のところ次々と海を渡って行こうとする「ハイレベル人材」が抜け続けるだけ日本の国内はそのスポーツに関してどういう人気が続くのでしょうか。そういう状態を心の底から皆が楽しめるのかなと思うのですが、どうな皆がしょう。ライブでそのワンランク上のスポーツが見られる時代はそういった比較が当たり前になった分、難しい話のような気もします。

今日の野球の日本一決定戦の試合云々というニュースを視ていて何となくそう思った今日の夜でした。

2024年10月23日水曜日

投票する政党や候補者が見つからん

どの政党に、どの人物に投票しようか物凄く迷っています。

何時もの事ですが、政治家選びは避けて通れないクソ選びの様なもの。絶対に選ばなければならないのにそれはどのウンコを選ぶのかというような話。猫のウンコか犬のウンコかキリンのウンコか馬のウンコか。

触りたくないし、見なくて済むのなら見ずに済ませたい。それでも絶対に触って見て必ず一個は選ばなければならないという状況が政治家選びです。本当に政治家のうち9割9分は語る迄も無いしょうもない奴らの集合体。自分の名前を連呼しながら作り笑顔を振りまいて顔写真をあちこちに張り付けるという感覚の持ち主なんですから、スタート地点からしてまともな訳が無いんですが。

国を思うて人を思うて志を持って動いている奴なんてどれほどいるのでしょうか。過去には国の為を思って動いている政治家が居た事を語るドキュメンタリーがありましたが、そういう事でドキュメンタリーが出来るほど政治家の国民への奉仕というのは「珍しい事」な訳です。

裏金問題なんかも誰もが「そういうもんじゃろうし、恐らくはもっと汚い事も普通にやっとろうが?」というのが一般人の感覚では無いでしょうか?そしてそれは何時の時代もどの国でも概ね事実ですし…。

さて、本題はここからなんですが、今回の選挙でどこの誰に入れるのかという実務上の問題。とんでもない連中を下から一匹ずつ除外していくというのが選定の方法論かなと。先ずはトンデモ政党の人間とその所属議員は除外。例えば共産党とか日本保守党なんていう準テロ組織はそもそも除外。ヤバい宗教組織直轄の政党も除外。幸福の何とかとか池田ナントカいう人が絶対的な教祖だったコウメx何とかも。w

だからといって自民党に入れる気はサラサラ無し。ここで気を付けないといけないのは今回の選挙では無所属に見えて実は自民党から公認を貰えなかっただけの屑を選ばない事。その他には日本維新の会とかでも選ぼうならその中に紛れ込んでいるトンデモ連中が比例その他で選ばれないとも限りません。立憲民主党も同様。

どの政党のどの連中の写真やプロフィールを読んでも溜息しか出ないようなのばかり。立法府に働くなら弁護士資格持った奴らが半分以上くらいは居て欲しいもんですが…。

そうやって眺めていくと票を入れるところがそもそも無い事に改めて気づくのでした。だからといって医師会から頼まれるような候補にも入れる気はサラサラありませんし。w

投票の瞬間まで悩みそうです。

2024年10月22日火曜日

体フワフワ

長崎を去る時も名古屋を出た時とほぼ同じような時間になりました。

夜の8時を少しだけ回った頃に義母と義妹に別れを告げ皆で名古屋へ出発。恐らく二時間毎くらいにトイレ休憩とSAでのお土産ショッピングを繰り返しながらの帰宅になるだろうという予想をしながらのドライブ開始でした。

長崎を出て直ぐに佐賀へ突入。金立のSAで停まった後に今度は福岡へ入って関門海峡前でめかりのSAで停まって関門橋を眺めて一休み。明太子などを購入してまたドライブ開始です。直後に山口に突入する事で四県目に突入です。実に単調なドライブで、田舎だけあってなかなか面白そうなところもありません。

取り敢えず昼に良く休めなかったことで山口に入った時点で既に眠気が襲ってきていました。広島のFMにチューニングを合せながら宮島のSAで停車してトイレ休憩をするとともに40分ほど仮眠をとりました。私の居眠り運転で家族の命を危険に晒すことは出来ませんし、後部座席の女性二人も隣の息子も既に目は閉じて大分経ちます。^^

私も座席のポジションを調整し直してリクライニングを強くして眠り込みましたが、目を開けて運転を再開したところで眠気が取れてかなりシャキッとなっている事に気がつきました。何よりです。

そのまま運転を続けると直ぐに岡山へ入っていきます。桃太郎のキビ団子を購入しないといけないなと思いながらも三木で一回停車。こうやって休みをそれほど取らずにそのまま兵庫に突入していきましたが、兵庫を出て大阪に入りだすころには東の方が白々と明け始めました。しかしまだまだ高速道路上はトラックだらけで普通車は少ない状況。

大阪を抜けて京都に入った時に何時ものように桂川PAで一回停車して店に入ろうとしたのですが、未だ店が開店する15分前でしたので、トイレ休憩だ行ってすぐに滋賀へ突入。これで10県目!もう眠気も強く無いのでそのまま走っていくと直ぐに三重県へ!ここまでくればもう名古屋は目と鼻の先です。

京都には入った頃から既に火曜日の通勤渋滞が始まっておりましたが、新名神を通っての名古屋へのアプローチは実にスムースであっと言う間に見慣れた場所が見え始めました。楠の傍を通過したころにはすっかり普通の朝。

家に帰り着いたのは8時半ごろでしたので、トータルでは12時間を少し超えた頃だったという訳です。全ての到達県数を数えると12!にもなります。やっぱ遠いですね。w

それにしてもやはりプロの長距離ドライバーの休憩の取り方やコツ等があるのでしょうが、それを知ってから運転するのも良いかなと思うのでした。

家に帰り着いてから車を降りて直ぐに気がついたのは体が微妙に上下動しているという感覚。船から降りた時とよく似ていますが、12時間も車を運転していたらそうなりますわな。家に帰ってからは直ぐに3時間ほど寝て疲れを取り病院へ向かいお土産をガッツリ配って帰崎の手短な報告をしたあと、病棟の溜まっていた仕事をサクッと終わらせてまた家へ戻り眠りました。

2024年10月21日月曜日

疲れました

夜中の二時に起こされました。

ある病棟の当直担当者からの悲痛な叫びで、ある患者さんのある事に関してその唯一の家族さんがしきりに無理筋な要求をしてくるという事で「先生、どうしましょう」という事でした。それに関して2時間ほどかけて対応を行ったのですが、殆ど眠れずにすっかり疲れました。orz

まあ、日本に帰って来て初めての経験ですが、実はこの患者さんある精神科の先生から状態が悪くなってから丸投げされた方です。が、これでは埒があかなかったので、高度救命施設が整っている別の大学の「ある科」の先生に依頼したところ気持ち良く患者さんの転送を引き受けてくださいました。

本来名古屋に私が居ればもっとスムースにいろいろな手筈が整えられたのですが、いろいろな事情が重なってパニック状態になっておられる家族さんにはなかなか当方からの順序だった説明は受け容れられないものです。それはそれで仕方ありませんので、私の方としては冷静にベストと燃える手続きを進めるのみです。

さて、ともあれ一夜明けていろいろな事を処理して心も体も疲れつつも、取りあえずは最終日を迎えました。

長崎での最後の重要な仕事は名古屋に持って帰るお土産。w 親族が集まった食事会では会費を負担できましたし、大事な子にはお小遣いも渡せましたし、親族へのお土産も手渡せました。取り敢えずの長崎における親族向けの仕事は終わったので今度は名古屋へ戻った時のお土産を買う事でしたが、大まかには嫁さんに伝えて福砂屋でのカステラなどを準備し残りは帰りがけの各地のSAで面白そうなものをちょっとずつ買い集めて…という何時もの作戦で処置していくこととしました。

私個人としてはお昼に義母と息子を連れて近くにある全国初のリンガーハット1号店に向かい長崎ちゃんぽんなどを食べてゆったりと過ごしました。

後はもう夜からの運転に備えてまったりとしていたのですが、なかなかきちんとした睡眠は取れずにそのまま運転をする事になってしまったのでした。さてさて、これから名古屋まで安全に戻ることが出来るのでしょうか…。

2024年10月20日日曜日

義父の三回忌

朝はゆっくりしていました。

一時過ぎから執り行われる事になっている三回忌法要を控えて二時間ほど前から以前義父と仕事の上でつながりのあった方々や義父の親族が集合しました。

11時過ぎくらいから友人の方々が三々五々来て下さり頑固一徹だった義父の思い出話に花が咲きました。一つ一つの話が如何にも昭和生まれの人間の逸話ばかりで、今ではもうとても有り得ないようないろいろな「奇人変人」達の話に膝を打って笑い合うばかりでした。

始まる前には皆で注文しておいた長崎・吉宗(よっそう)の茶碗蒸しや三食飯等のいつもの長崎の定番を久々にお客さん共々いただきました。

いよいよ1時になり皆が揃うと若い浄土宗のお坊さんがやって来て朗々とお経を唱えていきました。我々も唯一言える「南無阿弥陀仏」を10回唱えるところだけ何度も唱和しました。唱えて頂いたお経自体はかなり解りやすいお話で、一枚起請文の事などもきちんとお経の中に織り込まれていました。

それにしても、法事の読経というのは途中までは有難くて良いのですが、10分…20分…と経ってくると、お経何か全く耳に入ってきません。理由は御推測の通りで、足が痺れてしまうから!

もう、何が何でも脚を崩したくなるような状況になる訳ですが、最初のうちは我慢できても最後のほうでは「もう無理~~~~~」状態。周りでもムズムズした挙句に足を動かしていただけの人達も最後は胡坐になっていました。女性は体を少しひしゃげてリラックスしている人達が多くなりました。^^

最後の最後に坊さんの短く面白い法話があり、皆頷きながら人と人の出会いの大切さ、人生の短さと儚さを説かれるのに聞き入っておりました。坊さんとお客さん方を送り出した後は皆、親族でリラックス。

お義父さんも上から皆の顔を久々に全員眺めてくれたのではないかと感じた一日でした。いよいよ明日は長崎の最終日。実質滞在四日間のあっと言う間の滞在。次に来るのは何時になるのでしょうか。

2024年10月19日土曜日

恩人の社長の墓へお参り

嫁さんと長女は朝からさっさと家を出て浜町の方へ出かけていきました。

はままちと読むのがお役所読みなのですが、私たち地元の人間は「はまんまち」とか「はまのまち」と呼ぶのが一般的な所です。我々が大学生くらいの頃はかなり急速にこのエリアは寂れ始めていたのですが、そんな街でも今でもまだ残っているお店があります。

その中の一つのお店が浜町を少し眼鏡橋のほうに出ていった所にある「コロッケ」というお店。私が学生の頃からトルコ・ライスで有名で、私も嫁さんとデートを兼ねて何度か行った事がありますし、結婚してからも長崎に帰って来てたまに行ったりしていた老舗です。

ところが、今回のこの「コロッケ」チャレンジはなかなか大変な事になってしまいました。それは一週間前に福山雅治を始めとした有名人達がこのコロッケを訪れて全国レベルで紹介してしまったという出来事が発生していたのでした。

その放送の翌日などは2時間半待ちの行列が出来てしまったとの事。そういった熱も冷めない翌週の週末ですから、普通に福岡とかからも福山ファンならやって来ます。そう云う訳で、今日は嫁さんと長女は朝の8時50分から並んで居たようで、取り敢えずは先頭一番だったらしいのですが、それでも開店の11時までには既に長蛇の行列だったらしく、15分前くらいに御店を開けて対応して下さったようです。勿論結果は大満足だったとは後で聞きました。

さて、それはそれで嫁さん達。私と息子は昼過ぎからは以前お世話になった茂木の家具屋の社長さんの所に向かい、御仏前に手を合せてきました。そのまま奥様を車に乗せてお墓迄向かい、買ってきていた花束をお墓に挿したあと、奇麗に周りを掃除していき、もう一度手を合せて亡くなられた社長と心で話してきました。

お家まで奥様を送り届けた後、裏道を通って自宅へ戻り夜の親戚集合での焼き肉店での夜食に備えました。

7時に親戚大集合という事で近所の有名焼き肉店に全員集合。全員で15人だったかな?若い若い甥っ子姪っ子も沢山。四方山話も大いに盛り上がり全員が飲んで食べて大満足したようです。以前はこういう時はお爺ちゃんが一括払いだったのですが、ここは最年長者の私が払うという事で終了。

みんな腹がパンパンになった状態で家に戻り幸せな夜となりました!

2024年10月18日金曜日

長崎に到着

結局ゆっくりゆっくり休憩を入れながら長崎に到着したのは朝の8時過ぎくらい。

まあ、当初の予想通り12時間ちょっとの運転でした。関門海峡を渡る直前の壇ノ浦で30分ほど眠りましたが、それ以外はほぼトイレ休憩のみという感じ。ゆっくりとしたドライブでした。雨にも降られること無くラッキーというものでしょう。

朝の長崎市内に入る前に何時ものお約束で大村湾の眺めの良いサービスエリアへ車を停めて少し景色を眺めました。長崎市内に入るところでは変わったもの、変わらないものが区別なく我々を迎えてくれました。

家の前に着くころには嫁さんの方でとっくにLINE経由で連絡が行っていて、義母が玄関の前で待っていました。久しぶり~の挨拶の後で直ぐに荷物を下ろして車の中を空にした後、車を駐車場に入れて直ぐに休憩モードへ。

既に義母の手で敷かれていた布団の上にドッカと倒れ込んで、昼まで寝ました。あとは再び運転手としての御役目再開。モスバーガーに連れていけという事でしたので、その通りにさせていただきました。この時点で既に眠気は覚めておりまして、あとは家に再び戻って再度の休憩。夜には庄屋で再び夜食となったのですが、その間も私はぼーっとして脳味噌はお休み状態でした。w

ともあれ、夜にはぐっすり眠りに陥ることが出来たのですが、夜は物凄い雷雨で家が揺れるほど。何という歓迎振りかと思たのですが、夜には一回停電が起きていたのが翌朝の記録で判りました。

まあ、無事に着いて何よりでした。

2024年10月17日木曜日

人生最大の危機

冷や汗を掻くとはこの事でしょう。

今日は昼には病院の外来を終え、病棟の業務も終わらせて一時ごろには一旦帰宅しました。その後に急いで髪を切りに行って本日のメインイベントに備える事に。それは長崎の義理の親父さんの三回忌に出席するために次女を除く四人で車に乗って長崎へ向かうというものです。

髪を切った後に、少しだけ横になって5時ごろに起き出して来て7時の出発ターゲット時間に合わせるような行動をしていました。シャワーも出発直前にもう一回浴びてリラックス。嫁さん達準備した大量の荷物をしっかりと前もって車に下ろして荷物も詰め込みました。

結局、しゅぱつしたのは夜の7時半過ぎ。

あちらこちらで約二時間ごとのトイレ小休止などを入れながら移動をしたのは良いのですが、やはり少し単調な運転ですし、何時ものように長崎に夜中に向かうこの時間帯はほぼ9割以上が日本の物流を担うトラックばかりに周りを囲まれる状況です。

それでも、二時間毎のトイレ休憩ではSAでいろいろな地域のお土産を見たり、併設のマクドナルドで自分と息子だけマックを食べたりといろいろとやってい愉しんでの移動でした。時間も夜の12時を過ぎて来ると助手席の息子や後部座席の嫁さんの長女はすっかりお眠りモード。まあ、いつもの事です。

しかし、事件はこの後に起こりました。

もうすぐ夜中の1時半になろうかという時の事でした。山陽道、広島の区間でした。もう少しで小谷SAを通り過ぎようとする時に眼の前を真っ白のCX-3が走っていました。しかし、走り方が明らかにオカシイ。センターラインを跨いだり、また右に戻ったりという感じで明らかに居眠り運転かそうでなければ酔っているのか病気です。

特にその車の左側にはトラックが二台並走していたのですが、もしぶつかって巻き込まれたらこのサイズの車ではペチャンコにされる可能性まであると思うそのサイズ差。それが一分くらい続いたでしょうか、家族も寝ているので起こしはしなかったのですが、距離を置いて走りつつも「嫌な事が起こらなければ良いけど…」と思っていたら、粋なるその車が物凄い速度で急加速していたっと思ったら視界から消えていったのでした。

「何やっとんだあの運転手は?」と思いつつ、気を取り直して運転していたその時でした。
緩い右カーブの先でいきなりさっきの車が自損事故を起こした様子で中央分離帯側にぶつかって煙を上げて止まっている上に車外に出て車をじっと眺めていたのです。

こちらも100キロ出していますから、カーブの先に突然そんな状態で車が止まり、かつ人が車外に出ているなんて「全く」思っていません。急ブレーキを踏んで寝ていた家族が思わず「うお~」という声を出したのまでは覚えているのですが、こちらはもうPTSDレベルの衝撃。眼の前の本当に10メートル手前で危険回避した感じで、下手をしたらあの車にぶつかって人を殺していた可能性のあった一瞬でした。

あんな追い越し車線側のあの位置に車が居たら絶対人が死ぬと思ったので直ちに110番。「事件ですか、事故ですか」という何時ものあの声を聴いた後、すぐに事故ですと言って高速のポストのマーク位置を報告。事故の状況をつらつらと喋って景観とのやり取りを終了しました。

ところが、また一時間ほど経った頃に見知らぬ番号から電話。すると広島県警高速隊の方からその時のドラレコ画像を持っていないかと云われました。メモリは有るけど、見直したことはないしそのやり方としてはメモリを抜きだひてみる方法しかしらないと伝えた後、逆にこちらから人は死ななかったのかと聞き直すと幸いな事に人は死んでいませんでした。

何故画像が必要なのかを伺ったところ、運転手の証言が食い違う感じとのことで、ン後yに戻った後に画像を見直して、可能であれば報告しますねと約束して一旦終わりとなりました。

しかし、今回の件、あと一秒反応が遅れていたら完全に物損以上、最悪人を轢いている可能性のある事故でした。人生最大の危機の一瞬の一つと言って良かったでしょう。

有り得ない!しかし、何時でもあり得る事故なのでした。

2024年10月16日水曜日

リトニアからの荷物

車の部品を交換しようと思い立ってディーラーに頼もうとしたところ、取り付け工賃別で¥26,000といわれました。

個人的には「え、この程度のものが?」という感覚があったので、同時に添えられていた部品番号をインターネットで検索してみたところeBAYでその部品が$100で売っている事が判明。日本円にして一万円以上安い事になります。

ネット上でこの輸出業者の事を調べてみたところ、レビューでは9割程度の人が5つ星を付けていました。「お、この業者いけるかも?」と思ったんですが、良く見るとこの会社はリトアニアの業者。何といっても地球の反対側の旧ソ連に属したバルト三国ですし、あのベラルーシの隣、ウクライナの直ぐ傍の国で、何となく、実に何となくなんですが「大丈夫かな…」というのが正直な感想。

リトアニアの方には大変失礼なのですが、そういう感じでしかこの国をかんじられませんでした。しかも、ここから日本に輸入するという時点で高い輸送量などをかけられたら遠く外国から注文する意味が消えてしまいます。ところが、この会社で注文して日本に輸入しようとしたとしても、ナント「ゼロ円」で送ってくれるのです。

ただし、10月の2日に注文して到着は12月から1月半ばごろとの予想が表示されていました。私自身は全く急ぐ必要の無い部品でしたので、タダなら良い!と思いました。ただ、もしヴゅうもんが届かなければ100ドルほどの金が消える事になるかなとも思いはしたんですが、eBAYの補償システムもあるし「ま、やってみるべい」と注文したのでした。

アメリカの時以来の注文を行おうとしたところ、eBAYのほうから「お久しぶり!」という感じのメールが入ってきました。幾つかのステップを簡単に踏んで取引終了。さあ、これで暫く待つ事に致しましょう、、、と思っていたら今日いきなりリトアニアから荷物が到着。
二週間でタダの送料の荷物が到着しちゃいました。

中身を調べたらきちんとした純正品。国際取引もこんなに簡単かつ信頼できるものになったのだと改めて感慨一入でした。

2024年10月15日火曜日

デジタル・データを残す難しさ

夕方家に帰り着いてからはアメリカで撮り溜めていたいろいろな動画、写真等の画像データやメールのデータ、その他の研究用の諸々の資料をまとめて別のメディアにトランスファーしました。

データ保護に関する危機感はこの数年ずっと持っていて、今持っている2台のHDもほぼ同じデータをそれぞれ別のディスクに分けて入れていたんですが、HDというのは所詮「磁気」に頼った記憶システムですから、何時の日にか時期の減弱にともない読みが甘くなっていくリスクというのは何時でもある訳です。

アナログの写真やイメージはソレなりにアルバムやネガフィルムなどで分散保存されているケースが多いので、何かがあったとしても「一気に・全データが」読み取れなくなり消失してしまう可能性はそこまで大きく無い訳です。無論、実家が火災で焼け落ちてしまって…等というパターンはこの限りでは無いのですが。

取り敢えずやった事はこの二つのHDのデータを全て2TBのSSDの中に落とし込む事でした。転送の速度はいろいろな要素によって規定されるのですが、今回は私のPCに二つのメディアを差し込んで一気にHDからSSDへと落とし込むというもの。

其々のHDには300ギガ以上のデータがありましたので、二つ合わせると約700GBものサイズになる訳ですが、受け入れ側は2TBもあるSSDなので、余裕でadoptできます。しかしこのサイズですから、コピーを始めるとサイズンの形式にもよるのですが、精々のところ秒速80MB程度の速度でしか出来ない感じ。途中で休憩時間も併せると3時間程度はコピーに時間を取られた印象でした。

それでも、SSDに移された画像イメージなどを見直してみると、子供達の小さかった頃の写真や動画がバッチリ出てきて、思わず嫁さんや息子とじっと眺めてしまったのでした。

さて、このコピーのコピーもまたいずれかの時点で作っておかないといけませんね。クラウドだけでは到底安心できませんので…。

2024年10月14日月曜日

全く休めない当直

今日は当直に入る為に病院の勤怠システムにカードを当てた瞬間に仕事が始まりました。

当直司令をしていた師長からいきなり電話が入り「X病棟の患者さんが腹背部痛と熱発で苦しんでいます」というお話。さっきまでいた筈の当直医は何をしていたんだ?と訝しく思いつつも取りあえず診察開始。画像を撮り診察を行いいろいろ調べると尿管結石の様でした。ブチルスコポラミンの使用であっと言う間に鎮痛効果が出て来ましたが、その間に多めの点滴を行い排尿を促しました。

幸いにしてこの方、この後は一日中症状は出現する事は無くけろっとした感じで翌朝を迎えてくれました。画像では比較的大量の尿管結石が下のほうに降りてきてましたので、今後も何度も同じ症状を出す可能性があります。実際、この一か月でも同じような症状で三度ほど数時間だけ疼痛を訴えていたようですが、その度に数時間でけろりとしていたとの事。もう少し早く内科に連絡しなさいというのが本音です。対応の方法はいろいろありますし…。

さて、このインシデントと前後して実は別の病棟でも熱発者が発生していました。熱はそれほど高くないのですが、それでもこの方は右側腹部痛がありまして、虫垂炎で有名な幾つかの圧痛点が奇麗に反応してくれます。これはこれは…という事でコレも直ちにCTを撮るとこのお婆さんは胃が既に切除された形跡がありましたが、虫垂の腫脹などは無く代わりに胆嚢が大きく膨れ上がっていてやや捻転気味でした。

腫瘍などは存在せず、肝内胆管も正常だったのですが、これだけ腫大化した胆嚢で高齢者である事を考えれば抗生剤を使用して様子を見ている時にポスッと破裂したらあっと言う間に汎発性腹膜炎になってしまって命にかかわる事が充分有り得ますので、私の病院では外科が無いのでやるのは「ここまで」。

近隣の大学病院にお願いしたところ、当番日の肝胆膵内科の先生が外科と相談しながらサクッと受け付けて頂けました。救急車で送った後でお話を伺ったところ、最終的にはPTGBDというものを設置して下さることになったとの事。

午前中は休む間もなく働きましたが、その後は「やっと」休めるかと思ったのにそれは甘い考えでした。w

午後もあちらこちらからお声がかかり、あっちでコソコソ、こっちでコソコソという感じで仕事が続き、それらが一段落したのは本当に5時前。これでは何時もの仕事と全く変わりません。orz 

という訳で夕方にはいったん泥のように眠ったのでした。ジャンジャン。

2024年10月13日日曜日

第10師団 創立62周年・守山駐屯地 創設65周年記念行事

今日は嫁さんからいきなりの提案がありました。

それは自衛隊のお祭りがあるみたいだからソコ行かん?というもの。名古屋に住んで、アメリカに行く前の二年間も入れるとトータルでは十年以上住んでいる事になりますが、守屋に陸上自衛隊の駐屯地がある事は知っていていて始終その脇を通ってはいても中に入った事など一度もありません。

そう云う訳で「行ってみよう!」と二つ返事で行くことを決めました。お昼時だったので、もし行ったら人、人、人で入るのさえ大変な状況じゃないだろうかと恐れていたのですが、予めそのあたりは周到に準備されているのが自衛隊。^^
少し離れた所にある訓練場(昔で云う所の練兵場ですかね)に大量の車を溜めてそこからはバスを使ってのシャトル運行という効率よい方法で入場させて貰えました。

中に入ると、お腹が減っていた事もあって先ずは腹拵え。沢山の屋台が導入されていて選び放題なのですが、如何せん昼時でその前にはそれぞれ長蛇の列が!それでも嫁さんと手分けしていろいろなものを結構沢山購入。ショップで売っていたいろいろなTシャツやタグなどを購入してイソイソ状態。w
普段見る事の出来ないものを間近で見れるというのは良いものです。
この飾り気のない内装!実用一点張り!これを売れば良いのに。
どっちが本物かわからないレベルですが、ミリオタのオジサンと思われる人はいきなり専門用語で濃い話をしていました。w
こんなもん生まれて初めて近くで見ました。
一家に一台ミサイル打てます。w
砲塔の所はまんま戦車!
実際に回転させてくれて私はそのカッコ良さに痺れました。コレも一台欲しかった。w
ウクライナで兵士を乗せて戦場で大量に走ってそうな車両です。
その後は各種の展示物を順繰りと廻って感心するやら感動するやら。それでも私の目を実際に惹いたのは一番端っこで静かに飾られていた災害派遣の展示でした。私は個人的にはこの展示こそを一番目立つところに置くべきではと思ったのですが、そうでは無かったところが少し残念。

展示用のテントの中に立って今回の能登での災害派遣に実際に行った時の展示写真等の説明をされていた若い隊員さんに話を伺うと、実際この方自身は金沢出身の方で「全く他人事ではない」立場の方だったとの事。お風呂の設営では第十師団のものは「守山の湯」か「尾張の湯」だったか忘れましたけど、凄く喜ばれたそうです。また、いろいろな孤立地域に物品を届けた際のエピソードも伺いましたが、やっぱり悲惨なのはトイレだったとの事で、自衛隊が素早くいろいろと揃えていっても、現地の公衆トイレなどはそれこそ「悲惨」な状態が最初の一週間くらいはあったそうで、公衆衛生の維持には大変な気を使ったようですね。

それにもかかわらず、こうやって現地の災害に派遣されても特に追加の給金などは出なそうで、それを聞いて私自身は「は~?」となりました。いやいや、それはオカシイやろうと…。こういう時は特別に追加の給金を少しでも乗っけてあげるべきではという俺の考え方間違ってるかな?それ自体が業務の一環と言われればそれまでなんですが…。

医師として気を惹いた展示は災害時(有事?)の緊急用テントの展示とその中にあった一冊のタグ。下の写真を見て頂ければ説明は要らないと思います。
テントとその中の処置台。
本当に必要最小限の情報ですが、現場ではこのミドリの紐で体に情報が付けられていくのでしょう。
今日の今日まで知らなかったのですが、ここは正式には第十師団・偵察戦闘大隊というみたいで「大隊」なんですね。師団のマークとしては名古屋らしく金鯱!しかも所属する下の部隊には偵察という名前が入っている事もあってフクロウのマーク入りのものでした。

腹も一杯になって目も肥えて愉しませて貰った記念行事。自衛隊とはまさに抜かない剣を磨き続ける組織なんだなと感じた次第でした。災害派遣以外にその力を使わないで良い日がずっと続く事を祈ると共に、有事への即応体制は常に保ち続けて欲しいと思いながらずっと駐屯地を眺めていた半日でした。

2024年10月12日土曜日

キャンプの下見に行きました

ゆっくりした午前中でしたが、昼を大分過ぎてからキャンプ場に行くことを決心しました。

今回の場合「行く」というのは「キャンプをする」という意味で無いのでした。前回の巨大キャンプサイトである木曾駒冷水でさえも三連休の初日のような日には大量のキャンパーで埋まっている状態でしたから、今回のような三河湖周辺のキャンプサイトであればとっくに予約で埋まっている筈。

そうは思いつつも一片の望みを託してキャン道具を何時もの様に病院に取りに行きました。何時もキャンプ道具を入れた箱を二段重ねにして置いているのですが、最近は一箱にまとめているので比較的簡単にスタートできます。^^

前回の反省から、米を一合だけ突っ込んでカレーのレトルトを1パックだけ持ってのスタート。向かったのは豊田の向こうにある三河湖でした。

ここはマップ上でキャンプ・サイトをつらつらとチェックしている時に見つけたところでして、レビューを見てもかなりいい評判でしたので「泊り甲斐」がありそうな場所に見えました。

午後の山の中を走っていると「松平発祥の地」等という書き込みと共に立派なスギ林が見えてきました。最終的には道幅もかなり狭くなり、ゆっくりと慎重に走らなければならない道を行き違う車に注意しながら走っていきました。

最後に到着したのが「やまびこ」という小さな食堂兼キャンプ管理をしておられる方の家。
いわゆる「映え」写真用の文字ですかね。
私が撮ると映えません。w
実に気持ちのいい風が吹いていましたが、実際の所きょうはもう全てのサイトが埋まっているという当然の結果でした。
キャンプサイトの配置図です。
これが知りたかった!
インターネットは運営していないとの事で、予約したければ電話を掛けてちょ!と言う事でした。気持ちの良い話し方をされるお姉さんの運営されるやまびこでした。
お店の真横から見たパノラマですね。
19サイトの宿泊サイトがある事が理解出来ましたので、今後はこのマップを見ながらの電話する事となりますね。
トイレ側から見た湖の眺め。
この人造湖の美しい長めの周りに既に沢山のテントが張られており、オジサン達や家族連れが薪をぴしぴし割ったりしているのが見えました。

到着してから15分程度でしたが、場所の検分は十分できたと思えたので、そのまま踵を返す感じで名古屋へ戻って行きました。まあ、少々残念ではあったのですが、これは最初からかなり高い確率で解っていた事なので従容として従うしかありません。

さて、準備は「それなりに」OK。あとテントをどうしましょうか…。




2024年10月11日金曜日

三連休を楽しめない

仕事の性質上…という事もあるのでしょうが、何度もやって来る三連休を全くフルに取れません。

特に日本に多いタイプの月曜代休みたいなシステムの三連休の時には外部のバイトの先生もなかなか代わってくれないというのが現実。キャンプや小旅行に行こうにも、3回連続している休日をフルに使えるか、それとも土日だけかというのは大きな差です。

とは言え、三連休というのは日本の場合多くの場所で激混み状態が発生しますので、動き回るのが正解なのか否かはまた別の話。^^

何れにしても、不安定な状態の患者さんが居る時には三日のうちの何れかの日に顔を見に行って状態確認をしておきたい所。信頼できる当直医の先生が居て下さる時にはそういう必要性も大幅に低くなるのですが、普通は病棟や患者さんの事を把握している先生が当直をしてくれている訳でもありませんので、殆どの場合はやはり「気になるから診察に行く」という事になります。

病院に勤めていない方にはなかなか内側の事情というのは見えないと思うんですけど、公的病院以外の機関では最近はほとんどの場合、その病院の常勤医師と外の機関から雇われている大量の色々な病院、いろいろな機関のバイトの先生の応募によって成り立っています。病院の方針によってこの内と外の比率を変えているのですが、最近は私の勤める病院ではこの比率を「外部依存」型に変えようとしている様で、私にとってはこれからの勤務がやや楽な方向に傾くのだろうかと想像するとちょっとだけ幸せです。

さて、来週の月曜は当直になっているのですが明日はひょこっとキャンプにでも行きましょうかね?試そうと思っているのは車で一時間の場所にあるところですから、万一満タンでも眺望を眺めた後で帰ってくれば良いだけですので。

2024年10月10日木曜日

比例代表に縋(すが)るクズ達

安倍ちゃんの子供達と云われる所謂「安倍チルドレン」が次々と憤死しています。w

裏金不記載問題で比例代表方式での当選の一点突破で再選を狙っていた議員達が、それが叶わない!という厳しい現実を理解する事で、ムダ金使って借金を抱え込むよりは素直に白旗を揚げるという選択肢を選んでいる事が次々とリポートされています。

今回、私の目を惹いたのは杉田水脈(みお)という極悪のクズ。安倍ちゃんに乗っかって言いたい放題の差別発言を繰り返してきた積水ハウス出身の暴言オバサン。頭の悪い似非右翼である事は事の始まりから見え透いていた判り易い単純な脳の持ち主なのですが、今回の選挙では山口県連から名簿に載せて貰えなかったことが判明してあっと言う間に白旗。清々しいニュースでした。

いろいろな面で差別主義者である事を隠さない戦時中の日本軍部のような発想から抜け出せないパーですが、今回の白旗挙上は私にとって一服の清涼剤となりました。^^

公人としては絶対のレベルで言ってはいけないような差別発言を「平気で」行うこの鳥取大学農学部出身のオバサンには本当にlawmakerとしての如何なる資質も持ち合わせていないと私は思います。そもそも、自分がlawmakerだという自負は勿論、自覚などは持っている訳が無いでしょうし。

LBGTやアイヌその他の問題に関する話は、もう話すのもウンザリという程の低レベルなインシデントでしたが、なかでも人の価値を子供を産むか否かという「生産性」で判断するという話は、もう「お前頭大丈夫か?」と心配になるほど。

そもそも、子供を産むという行為を生産性という言葉に代替するという事自体が21世紀の今では噴飯物ですが、こういう輩の背景にあるのはまさにナチスの優性思想そのもの。ヒトの価値をこういう形でしか表現出来ない恐ろしい程のバカ者です。

もし人の価値がお前の云うところの子供の数で決まるのならお前が万一子供が産めなかった時には宗旨替えしとったのか?子供が障碍者だったら人としての価値は無いのか?なんて言う初等的な質問で先ずぶった切ってやりたい所ですが、勿論こんなクズ相手に限られた人生の時間を使う余裕は有りませんのでパスです。

そういう杉田の論法を敷衍していくと、国民の税金を食みながら寄生虫として生きつつ裏金を貯めて生きようとする日本国の獅子身中の虫であるおまえこそが最も生産性が無いのではないのかい?と本人の面前で言ってやりたいです。w

2024年10月9日水曜日

90代の爺さんの生き方

この夏から秋の暑気にやられた90代の身寄りのない爺さんが入院してきました。

入院して来た時に行った認知機能検査では90代にしてはなかなか「矍鑠」と言って良いレベルの点数で、まあこの歳でこれなら認知症とは言わんでも良いかな~位の点数は取れていました。

開口早々私に言った言葉は「私はここ何十年も病院なんて行ったこと無いんや」と云う啖呵売のような威勢の良い言葉。まあ、この手の年寄り、特に爺さんは日本に帰っていて数年で沢山見て参りましたので、私としては「ハイハイ」という感じ。

病院に行ったこと無いと云うのはイコール健康という訳では全く無いのは何度でも見てきた事ですから、逆に良くない疾患が見つからない事を祈るばかりだったのですが…。入院時の単純胸部XPからいきなり良くないイメージが得られてしまいました。

胸部造影CTを直後に行ったところやはり間違いなくある種の肺癌である事が判明しました。しかも、かなりステージが進んでいる感じ。しかし、現時点では臨床症状は全く無く気ままな感じで一見元気そうです。咳もしていないし、胸の痛みも無く、息切れなども無ければ血痰も無し。腫瘍マーカーは立派に上昇していましたが、そんな事をこの身寄りの無い爺さんに話してもあまり意味が無い様な気がしたのですが、「できもの」が出来ている事は説明しました。

これに対し思った通り、何の感情面での波風も立てずに淡々とリハビリの計画を聞いてきたのでした。

しかしその爺さんは今日になって「やっぱり家に戻る」と一言残して病棟を去っていきました。我々としては彼を留め置くことは一切行わず「万一、これから肺癌の進展で倒れたり苦しくなるような事があって、助けをも求めてきたらレスキューしてあげましょう」と病棟と医療連携室に伝えて一旦終診としました。

90過ぎればみな無双です。^^ 好きなように生きる権利を大事にしなければいけません。



2024年10月8日火曜日

長女が電話を買えない!w

この数年で何とも「アレ」縛りになってきたんだなという事が実感できる状態になってきた事が今回の長女の電話機購入で明らかになりました。

今回、帰国してきた長女が新規契約としてDoCoMoでiPhoneを購入してフツーにahamoで契約しようとしたんですが、先ずはDoCoMoのIDを取得して、機種選定、最後に購入という手順を踏むのですが、最後の最後で7種類くらいの日本国内の種々のIDを示す事をリクエストされるのですが、そこにはパスポートは無し!運転免許証を含め障碍者手帳等々の表示があるのですがそこには娘が持つIDは一つも無し。w

という訳で、数日前に申請していたマイナンバーカードを待つことになっているのですが、これが今の時点で凡そ一か月待ちとのこと。今現在、日本人のマイナンバーカードの取得率はギリで80%に乗ったかどうかというのがこの7月時点での現状。

まあ、取得する気の無い人間、取得する事の出来ない人(認知症その他も含め情報から隔絶されている人など)達も含めて2割ほどは未だ取っていないようですが、やがては行政の波に洗い流される事でしょう。

日本人としてこの国で生きていく限り、ありとあらゆる手続きが早晩この一枚のカードで処理されていく仕組みになるでしょうから、抵抗する事自体が無駄。アメリカにおいてSSNを持っていないのと同じ事が起きる訳で、「普通の日常を送る市井の人間」であろうとする限りはありとあらゆるところでこのカードの提示を求められる訳です。

今回の娘の電話取得に限らず、公的書類の申請、不動産の取得、銀行口座の開設などに全て当てはまって来る筈。保険証や免許証は既にその状態ですがとにかくphotoID無しの資格やお金の流れはますますガッチリとブロックされていくことでしょう。

結局、今後はマイナンバーカードというIDの最初の入り口での偽造とそれ以降の電子的詐欺の防御手段のブラシュアップでしょう。

恐らく娘は日本でも免許を取る気は無いのでしょうが、今回の件は筒井康隆の1枚のIDを無くして生活が全てぶっ壊れる男の話を再び思いだしました。

2024年10月7日月曜日

クスリを自国生産出来ない三流国家・日本

頭の悪い厚労省の役人の存在は常に国民の健康を脅かし続けてきましたが、最近はそれが目に見えて加速してきました。

このブログでは「何回も」国家の怠慢と誘導による国民の生命の基本的安全の確保が無視されている事を書いてきました。様々な病院で多くの本当に基本的かつ必要な薬が「無い・供給出来ない」という事態になっているというのが常態化しているという話。

暫くすれば、暫くしたら…等と問屋や製薬会社の人間は言っていましたが、コロナ前からの年数をカウントすれば少なくともこの5年ほどは同じことを言い続けています。

臨床の現場への実際の影響としては、例えば今まで一週間使用して良く効果の出ていた抗生物質が8日目からは次の薬に変えなければならないという状態に「強制的に」変更させられる訳です。それも一種類二種類ならまだしも、日常的に使うようなごく普通の薬等でも同じように「次の入荷は未定です」等という事前通知が来るわけです。

クスリの材料の基本中の基本となる種々の材料の多くが中国やインドに依存しているという異常な事態を推進「させられた」理由は明白。バカ厚労省が薬価を下げ過ぎた事で、普通に国内で薬を一貫して製造しようとすると、設定された薬価では到底利益を出せずに、作れば作るほど赤字になるという様なトンデモない政策を推進した為。

結局、日本は万一他国が「NO」と言えば、薬を作れない国になり果ててしまったのです。目先の小銭稼ぎに惑わされ、対局を見極めきれなかった日本の役所の大失態です。

日本国の獅子身中の虫というのは、私が理解できる範囲では本当にこの役所が筆頭では無いでしょうか。いま、こういう事態になって初めて厚労省は動いて今必死でそのリカバリーに動いているという事ですが、流石は三流官庁!先も読めず、体側も後手後手。金融庁に言われるがままに薬価と保険料を削り続ける事で医療費を下げ続けたとどの詰まりが今の日本の薬の不足です。

一体ここはどこかの第三世界なんでしょうか?行政の愚かさの為に人が死なない事を祈るばかりです。

2024年10月6日日曜日

日・タイ文化フェス2024

家族四人で覚王山・日泰寺に行ってきました。

日本とタイの間での友好を深める云々という名目のフェスティバルですが、我々にとっては美味いタイ料理を食べに行く事、そして珍しいタイの物品を見物したり購入する事が目的です。
ビールを飲むことが出来るように、そして駐車場の心配などをしなくて良いように当然の様にわざと地下鉄を使って行きました。覚王山迄の地下鉄乗車は息子にとっては愉しみの一つですから、その楽しそうな横顔を見ながら地下鉄で移動するのもまた楽しいものです。

覚王山に到着すると、何時もの道端でのフェスティバルとは異なり日泰寺の境内まで入っていかなければなりませんでした。それにしても「暑い」そして「湿度が異様に高い」感じで、体力を奪う良くない天気でした。とてもとても10月とは思えない感じ。陽の照る強さもまさに真夏のまんまでした。

実際、いろいろとタイ料理を食べたり飲み物をがぶがぶ飲みながらその暑さに対応しようとしたのですが、途中から息子が何となく表情が冴えなくなっているのが判りました。木陰に息子を連れて行って股間を調べるとおしっこでオムツが盛り上がっていました。これはいかんと思って今度は少し空調の効いたところへ連れて行ってトイレに座らせた後で少し休憩。

やっと顔色が戻ってきた感じになり行動再開となりましたが、こういう時には例え10月であっても熱中症にならないとも限りませんし、息子に限って言えばてんかん発作を起こさないとも言えませんしね。
こんな感じでカンカン照りでした。これでは体力を奪われて当然です。
右も左もタイ料理とタイ・ビールとタイ・グッズの店。
こういった店の中にタイのTシャツを売っている店がありましたので、SHINGHAビールの赤いシャツと、STONE WASHの臙脂のシャツを買ったのですが、家に持って帰ったら即座に次女に奪われました。orz
しかも日差しの下で食べるのですから体力の消耗はヤバい事に。
舞台ではいろいろな出し物が次々に演じられていて、踊り、歌、演武など日・タイ双方の出し物の競演という感じでした。しかしながら、暑すぎてそれらに集中できなかったのも事実。
五重塔の下にも沢山の出店。いい雰囲気です。
帰る直前の一葉。
主な会場はココには写っていない少し左側でしたけどね。
最後には会場を離れて帰る道すがらでもいろんなものを買っては飲み食いという胃袋を楽しませながらの帰宅となりました。

幸いな事に息子も最後まで体調を崩さず元気に付き合ってくれました。家に帰り着いてからは余りにも胃袋にいろいろ詰め過ぎたせいか、とても「普通の」ボリュームの夕食を食べることが出来ず、そのままちょっとだけ素麺を食べて一日の食事を終えた私でした。

また、来年も行きたいものですが、この暑さは御免です。w

2024年10月5日土曜日

長女に話をちょっと聞いたところ

今回帰国した長女に帰国に関する話を聞いたらちょっとだけ話しました。

帰国の前に今まで持っていた荷物はどうしたのかと聞くと、友達が荷物は幾らでも預かってくれたとの事ですが、それでも随分と絞って処理したりあげたりしてきたという事です。あと、自分の友達の家の地下にスペースを貸してくれる仲の良い友達が居てどうしても持って帰らない分に関してはそう言って置いたままにしているんだそうです。

話すところでは帰国した理由は以下の二つの理由が重なっているようで、
  • 今のアメリカに住みたくない
  • 25年ずっとアメリカに住んできたけど、やっぱり日本という国を楽しんでみたい
とのこと。

私としては私が居た頃より恐らく明確に分裂の進んだ今のアメリカの空気を吸い続けるのが、彼女なりに少しキツくなってきたんかなという気もするんですが。昔から「お父さんには判らんやろうけど、やっぱり差別というのを私は感じる」というような話をしていましたし。私の住んでいた外人だらけかつ、そこに居るほぼ全員がインテリジェントな連中に囲まれて生活をするという環境とは違うLIVEの世界なのが違うところなんでしょうかね。

アメリカのそういう普通の状況には溶け込んだことが無いので、娘のそういう感覚は一生自分には解らないのかもしれません。

そして、こちらに移り住んで何がしたいのかというと「アメリカに関与しながらも日本側から関わる仕事を続けていきたい」との事でした。その上で、追加…みたいな感じで話をしていたのは東京での生活というのが、つい数日前に娘の帰国に関してちょこっとこのブログに書いた話になる訳です。

そんなこんなの長女ですが、何もしてないのに帰国数日で既に日本の知り合いから日本でのインターンシップの話が入ってきているとの事。彼女に暇な時間というのはなかなか出来なさそうですね。w

2024年10月4日金曜日

食いすぎ呑みすぎベトナム料理

先日ちょろっと書いた様に飲み屋で知り合いになったベトナム人の経営者と栄で呑みました。

7時過ぎから呑み始めたのですが、どんどんどんどん話が弾んでお互いにお互いの家族や人生観のこと、それぞれが生まれ育った国と田舎の話になりました。

歳は実質一回り以上違うし、お子さんはまだ5歳とそこらあたりは全然違うのですが、発想のパターンが驚くほど自分と似ていて、逆に私の頭の中は「この人誰?」状態。一人で喋って貰っていても何か俺が話してるのかねというような会話の内容でした。

この方はベトナムのフエ出身で、日本には20歳の頃にやって来て先ずはセブン・イレンブンで仕事をし始めて次第に日本語も習得。お金を貯めてベトナム料理店を始めて次第に拡張し、今では店を三店舗やっています。次は錦の方にもう一店作るとかいう事ですので、コロナのようなとんでもない事が起きない限りは、まあ大丈夫なのでしょう。

フエという所は最近日本からの観光客も沢山居るので、知っている方も多くなってきていると思うのですが、王宮のある場所として有名なだけでなく1968年のテト攻勢における苛烈な戦闘でも有名です。また、ベトナム戦争中の有名な写真の一枚としてドック師らの焼身自殺の写真がありますが、師らが抗議行動を行ったのはまさにこの頃だったのです。

ベトナムに行くとすればダナンやフエ、ホイアンなどを回ってもしパワーが残っていればサイゴンなども考えてはいるのですが、そこまで一週間で廻るのは疲れそうな気もします。やはり旅はユックリが良いですからね。

オーナーから言われたのですが、飛行機のチケットを購入するなら必ず個人的な言ってくれと言われました。ネットで購入するよりガッチリ安いのを準備できるから!と。これには期待大です。^^

さて、私自身は皿を四種類ほど注文してそのどれにも大満足。コロナ・ビールも呑んでいたんですが、このオーナーさんが今度は俺が!と言って、ハイネケン・ビールをジョッキでガバガバと出し始めたのです。更にコレは美味しいからアレも美味しいからと説明付きでどんどんオーナー権限で出してきます。もう既に腹がはち切れそうなのに次から次へとフエの郷土料理が出て来ます。w

確かに美味いのですが、余りの大量振りに泣きながら食うレベル。でも美味いので胃袋には入ってしまうのでした。これで更なる体重増加決定。orz
結局なんだかんだ言って四時間ほどかけて二人で十皿ほど平らげたのでした。しかし、これで俺も大分ベトナム通になった気分です。通になるのはいろいろと心地よい痛みを伴うものですね~。

2024年10月3日木曜日

名古屋の市長が国政に(再び)出るというけれど

河村のオジサンはまた何を考えているんでしょうかね。

愛知県知事の大村さんに蛇蝎の如く嫌われている河村さんですが、流石はポピュリスト!次の多選が批判の対象になる事を見越して、直ぐに解散となる議会を目指して時期国会議員選への挙手を行っていました。

私個人は大村さんの持つ対河村感とほぼ変わらないものを持っていると考えています。河村のオジサンの胡散臭さとポピュリスト振りにはもう辟易レベル。ただ有名というだけで何度も市長になっている人物です。

大勢が右に傾けば自分は右だと言い、左に傾けば左に靡く発言をする。世界に冠たる名古屋スタディと呼ばれる自分から名古屋市大の教授に依頼したHPVワクチンの研究も、感情に流された一部のヒステリー集団からの抗議を恐れて「無かった事」にしたクズ野郎です。

要するに、このオッサンは自分が目立つ事をして舞台の中央で踊っているところを視て貰いたいだけの男。名古屋市議会に居ようと、国会議事堂の中に居ようと、行動や発言に整合性も無く「目立つ事」をし続けていくだけの人です。

以前も国会議員をしてたし、名古屋の蒙昧な人々はこの「知名度抜群」のオジサンを今後も選び続ける事でしょう。まさに衆愚政治とはこの事ですが、これも民主主義なのですから仕方ありません。クズでも選ばれればセンセーですから。w

お隣の赤い国々のようなトンデモ独裁者の存在よりかはまだマシかもと云う位で考えておこうと思います。それにしても、この選挙モンスター、一体いつまで政治の世界に居残り続けるんでしょうか。 

2024年10月2日水曜日

外国人コミュニティ

名古屋には日本で最大のベトナム人コミュニティがあります。

名古屋市はその人口の4%がいわゆる外国人と呼ばれる人達です。まず数として最大なのはその位置関係と、母国の素の数の多さから当然中国人。その次は歴史的な事もあるのでしょうし、地理的にも近い韓国・朝鮮人。その次がベトナム人。更にフィリピン、ネパールと続くようです。そもそも3割は既に永住者との事ですが、そのうち多くは中韓でしょう。

区として外国人が一番多いのは港区で11%のようで、何と9人に1人は外人という凄さ。他にも中区や中川区と続いていますが、これが愛知県となるとトヨタなどではブラジル人などの数も増えて来るのでしょう。

しかし、コンビニなんかは今では昼も夜も若干のオバチャンと年寄りを除けば若い人達は本当に外人ばっかり。これって日本の他の地方ではどうなんでしょうね?

そもそも外国人というのは、特に言葉が通じないレベルの多くの第一世代はどの時代のどの国でも単純労働=言葉の要らない仕事から始めます。アメリカでも私が見てきたのはコミュニティを作ってそれぞれの職種で集まる各国の外国人達でした。

洗濯屋やネイラーの韓国人。中華料理の中国人。駐車場管理人のエチオピア人。小売店のインド人、建築土木業の中南米の各国の人達等々という感じでしょうか。他にもいろいろあるんでしょうが、いろんな職種にいろいろな国の人間がこうやって寄せ集まって生きているんでしょうね。

移民の教育レベルが世代を継いで上がり始めると急に違う職種で給料の高い仕事に移って行きますが、日本に来てる外国人にも同じような未来が待っています。

実は私が週末に今度酒を一緒に飲むのはそう言った外国人の一団。いろいろとバックグラウンドの異なる集団にいろいろな知り合いを拡げるのが最近の小さな愉しみです。少し前から始めた一人外出の一人呑みや、ソロキャンプは恐らくこれからの私の人生に今までとは違う彩をつけてくれることになるのでしょう。

2024年10月1日火曜日

セクハラ・パワハラの発生

勤め先の施設では無いのですが、産業医をある程度引き受けていると健康に関する相談やスクリーニングのみでなく、職場環境の改善に関係して種々の相談も同時にやって来ます。

産業医というのは相談を受ける話題の中で最近激増しているのは基本的に「鬱」を中心とした精神疾患やそれに絡んで話される各種のハラスメント。

ハラスメントとはパワハラだけでなく、セクハラも何かと話されます。実際、今年の「その施設」での問題として数人の女性から個別にコンサルされた問題は全く同じある人物に関するセクハラとパワハラの指摘。

その三人が全く別の視点から、同じ人物から受けた二つの種類のハラスメントを語るのですからこれは施設のトップにリポートして対応を仰ぐ必要がありました。

今回の件は実は随分前から深く静かに進行していた様で、到底トップに届くような状況ではありませんでした。いわゆる「弱き者の小さな声」という類のもので、立場上不利な職位が下の女性達が被害に遭ったのであろうと強く推定される状況でした。

こういった件に関してはプライバシーを厳守する意味でトップへの直接の報告が大切。他の人間が知る必要はありません。その上でトップがこういった問題に対応しないようであれば、それはその組織の問題。トップが最終的に責任を取らされるリスクが高まるだけで産業医側はその報告を行ったという客観的事実のみが残っていれば良いのです。

万一、従業員側が法的アクションを取ってその施設や企業側を訴えたら私はいわゆる「第三者」となる訳です。

「真実は奈辺にありや 」という状況に産業医が関わる必要は無いのですが、こういった声の出せない人達の「職場環境」をあるべき方向に向きを少し変える第一歩の動きを手伝う事にはなるのでしょうね。

この子達に良い解決結果がもたらされます事を!