正しいことというのは何なのか見抜くことは本当に難しいです。
世の中には無数の情報がいろいろな場所に提示されていて、その多くが実際はある特定の条件下(例えば特定の時間に特定の人の手によって特定の道具を使って)のみ再現できるようなものなのに、あたかも一般的な方法で再現できる普遍的な事実であるかのように修飾されている事柄は無数にあります。(科学論文のような誰の手によってもその方法を守りさえすれば再現できる「筈」のものでさえも、再現できないなんてことはザラにあって、そういう論文の最後は誰にも見向きもされずに消えていくか、逆にセンセーショナルなものであれば世界中から叩かれまくって科学の世界からラボと人ごと消えていきます。)
しかし、市井の人々は殆どの場合そういう厳密なサイエンス等とは関係ないレベルの世界で多くの言葉や数字に日々騙されています。職場でも周囲の看護師さんや事務員さんの話を聞いていると、別に医療などに関係なくとも家のローンの利率や宝くじ・景品の当たり外れ、携帯の契約金と容量の関係などで間違った結論に雰囲気で漂着しているのを頻繁に仄聞します。
話をよく聞いてその結論に至るまでの論理的経路を聞いていると殆どが「本当にそんな事を信じてるの?」というような私からみると怪しい情報を正しく疑わない結果から導いた結論にまさに縋ってそれ以上の思考を止めて入るようにしか見えないのです。
何でしつこく考えたり疑ったりしないのか、疑うことが仕事である人間である私からみるとその最後に縋り付く結論を導く過程のあやふやさと甘さに「・・・」という感想を持ってしまうのですが、疑うとか考えるなどという事を面倒くさいと思う人はやはりそういう教育を受けていないんではないかと思うんですね。
特に、そういう事に対して素直な気持ちで疑う・考えると言うことを通して嘘に「騙されない」人間を育てるのにいい時期はやはり小学生だと思うんですよね。この時期にまず第一弾の洗礼を与えて自分で考えるという基礎を与えて、更にそこから数年の多感な時期に種々の教育的刺激(正しくデータを解釈する、正しく推論の手順を踏むなどの教育を繰り返ししつこく!)を与えることで「目の前の情報を正しく疑う」人が育つと思うんですが、難しいですかね。
世の中に溢れかえるその手の話にはインチキ投資物件、オレオレ詐欺、新興宗教、テレビ番組の世論誘導、胡散臭いCM、いわゆる健康食品、いかなるガンにも効く薬、政治家の政策発表!等々数えだしたら本当にきりがありません。
日本人は最後の最後になると賢い人間達でさえ訳のわからぬ念仏を唱えて集団で非ぬことをし始めると喝破したのは白洲次郎でしたが、やっぱりその本質的なところでは日本人は変わってないんでしょうか。
アメリカ人があのみっともない陰謀論に先導された選挙を見せた後だからこそ、現代日本は「少しは」変わって進歩していると信じたいところです。(とても信じられませんが。<端(はな)から疑っている。w)
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