今の日本で長生きすることによって得られる幸せのターゲットはどこにあるのでしょうか。
元気で、子がいて孫がいて、贅沢はできないけれどそこそこのお金があって・・・と言うならばいいんですけど、残念なことに病院や在宅、その他の施設で見てきた長寿者の中にはそうでない人がズラリ。
勿論、優しい家族に優しく囲まれているお祖父ちゃんお祖母ちゃんもいるんですが、その手の方は意外とeuphoricというか、幸せの方向にボケている感じの人が多い印象なんです。自分がボケていることを認める人もいれば認めない人もいるし、そもそも認知症の何たるかが理解できないレベルまでボケてしまっている人も少なからず。
もう一つ考えるのは「じゃあボケていないのは幸せなのか?」という疑問なんですが、お金があっても自分の老化を認識できている人は、そうやって老いていくことをシッカリと自覚できているだけに年々歳々確実に老化していく肉体と精神をそのしっかりした頭脳で客観的に見続けるという罰ゲームを課されているように"も"見えます。
若さというのは本当に金では買えないもので、若い頃には観念では解っていても心配するようなものではないもの。あの老害の石原慎太郎も、太陽族という言葉を生み出した頃は戦後の若さの暴走を描出して遠慮のないものを描き出して、偉そうなことを(当時から)放言しておりました。
金があっても老いた肉体では楽しめないことばかり。VRやARが発達したら少しは状況は変わるのでしょうが、興奮しすぎたら今度は心臓が止まりそうで。w
大便や小便をトイレに行って一人ですることができなくなってきたら私個人としては「老いた」と自分を定義しようと思っています。そして、自分の口で飯を食べられなくなったらもうそれ以上の長生きは不要と思っています。ただし、これは「自分」に対するものであって、他の誰にリクエストするものでもありませんし、いわんや自分の日常の患者さんにそれを求めるものでもありません。
若いというのは無理がきく時間。若いというのは失敗がたくさん許される時間。若いというのはこれから何十年も先のまだ何者でもない自分を数限りなく夢想することが出来る時間だと思います。
そういうことも還暦を過ぎてくると次第次第に・・・少なくなるのではないのでしょうか。夢は沢山見れても、それを実行に移すチャンスは次第に減り、安定方向に振られていくのが歳を経るという現実なのだと思います。
寂しいことですが。
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