2022年11月29日火曜日

大凡人の悩み

命が助かるということが息をしていると言うことだけでいいのか?という事を考えさせられるような事態によく遭遇します。

認知症の高齢のお爺ちゃん、お婆ちゃんでもう殆んど日常の行動はできない状況でベッドの上でほぼ一日寝たきりだったりする事が結構多いのですが、その方々が年々歳々認知機能が低下していってADLが更に低下していく中で、更に追い打ちをかけるように心筋梗塞や脳血管疾患の影響で意識レベルが大きく低下してしまった時などは我々は家族の希望に沿って種々の処置を行います。

ところが、御家族に病状を説明する中でこれからの治療方針や心停止・呼吸停止が発生した時にそれから先の救命や延命措置をどうするかという事を話し合うと「やっぱり、苦しまないように静かに見送ってあげたいです。」とか「意識のない中で、苦しむ時間が長くなるような処置は望みません。」等とはっきりと意思表示をされる方々が特にコロナ以降は圧倒的に多数を占めてくるようになってきました。

また、認知機能にほぼ全く問題がないような状況で入院されてきて、長い長い十年以上の入院(精神科では出たり入ったりで30年とか入って居られる方が存在しているのにも驚きますが!)の間にどんどんと認知機能が落ちてきて、いわゆる認知症の状態で自分で明確な意思表示が出来なくなってしまうような人も元気な頃から「一切の延命処置を拒否します。」とはっきり言い切り、それを書面に認(したた)める方も日常的に普通に居られます。

しかし、我々の日常としては家族が認めようと、本人が認めようと、そんな意思表示をされた方々が大きく生理的な状態が落ちてしまった時に最後の瞬間をどう看取るのかというのは毎回我々医療従事者にとっては考えさせられることの多い出来事です。

まさに「言うは易く行うは難し」で、恐らく何の哲学的考察も行わずただ淡々と見送るようなことをするのであれば、そのうち医療行為自体もロボットがすれば良いのでしょうが、そこには我々や御家族という「人の心」が介在しています。

最後には御家族も納得できるような、そして自分の家族、もしくは自分自身であればこういう見送られ方が良いなと思えるようなお別れをして軟着陸を目指します。そういう過程に悩みがないのは聖人君子だけだと割り切って、その都度大きく・小さく悩みながら患者さんの最後のお見送りをしている私でした。


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