2021年4月19日月曜日

「こどもしょくどう」に涙する

日本の子供の表に出てこない隠れた貧困のことは以前から少しここに書いてきました。

その対策の一環としての子ども食堂のような施設の存在が私の眼には「取っ掛かりの良さそうな対象」という感じで視野に入っていたのですが、そういった類の施設を実際に運営してみて、失敗を経験された方々の貴重な経験を記録したウェブのまとめを見ると、善意だけでは成り立たないまさに「経営」の視点が求められるということが明確にまとめられている事に改めて気付かされました。

しかし、それでも運営を一生懸命使用と頑張る人々の善意の集合体であることは間違いないこと。助けてくれる地域や全国規模の企業もさることながら、周辺に住まわれている子供さん方のお母さんなどの協力も大きなリソースです。

人的リソースにはやはり限界があり、それでも皆が頑張って頑張って・・・やり続けるというパターンは実は人々の無理の延長上に生み出されるものであって、最後には多くの人々の心と財布の疲れと言う形で子ども食堂を閉じてしまわなければならない事態を生み出してしまうようです。

子ども食堂というところが、貧乏だったり片親しか居ない子供の来る所だという先入観のもとに子供のアクセス、そしてその親達のアクセスを遠ざけているというパターンも多く、本当に来て欲しい子供や親たちさえも来店を遠ざけてしまっていることも少なくない様子。

そんな中で最近Amazonのprime videoで観たのが「こどもしょくどう」でしたが、実際には子ども食堂と言われる前に、様々な事情を抱えて一つの「普通の食堂」に寄せられるように集まってきた子供達。

現実の世界の中で、本当にいろいろと見聞きし、考え、行動を起こそうと考えていてもそれをどう具現化していけば良いのかわからない子供達。いろいろな意味で子供を育てる能力の欠如したいろいろなタイプの駄目親のもとを離れる事ができない子供達。そして最後には子供達自身を育てられないどころか、文字通り「放棄」してしまう母親や父親達。

実際の世界は「恐らく」という言葉を付けるまでもなく、もっと過酷な現実が子供達を日本中で毎日のように襲って居るという現実に、親として3人の子供達に普通の生活を送らせることが出来たことに安堵する事もできず、暗澹たる気持ちで映画の描写に「巻き」込まれました。多分、実際の話をオリジナルが誰かはわからない形で脚色したのだろうと思えるようなミニストーリーに涙。

不幸な子供時代を過ごした子供達の心に付いた傷が、成人した後も彼らの心理的瑕疵として残っている事が多いという厳然とした事実に「人生のスタート時点での不平等」を何とかしてやれないかと腕組みをして考えてばかりです。

能力があっても、磨かれた子とそうでない子に差がついてしまうのはある程度仕方ないことですし、親を選ぶことは出来ません。そもそも人生は不平等です。それでも、平均以上に能力のある子供達を可能な限り引っ張り上げてその能力を開花させてあげるのは社会全体の責務であると考えます。

そして、能力のない子であっても当然のように沢山の良い面を引き出してあげることが出来るはず。そうすることで悪の道に入ったりすることを減らすことも実際は社会にとっては大きな投資です。要するにベクトルの向きを上向きにすることですね。少なくとも「今日のご飯」が食べられずに家で横になったり、露頭で行き場を失った子供達が寒空のもとで震えたりすることは今の日本であってはいけない事と強く感じます。

日本型のシェルターはもっとシステマティックに運営されるべきで、全国規模でそういった「公営」もしくは「準公営」の救済組織を形成すべき時期に来ているのではないでしょうか。

戦後、行き先を無くした子供達の一部は「生き残るために」徒党を組んで組織として暴力でサバイブしてきた事実を我々は知っています。大所高所から悪の道に走った彼らを倫理的に責めるのは易しいでしょう。しかし、生存権を脅されればある一定の割合で人は何でもします。そして、得てしてそのようなことが出来る人間は実は「知性の高い生存能力の高い人間」だったりという事が多いのではないでしょうか。これを社会の損失と言わずに何というかと。

「社会」全体が子供達に安心して眠れ場所と食事をとることが出来る場所を、そして出来得るならば「学習」をする事ができる場所を確保する事を公的なシステム、児童養護施設に至る前段階のシステムを構成することを考えられないでしょうか。そして、もう一つ大切なのは、傘の下から出ていった「法の庇護」から外れた若者たちが社会人として仕事を得るまでサポートするお金をカバーしてあげることでしょう。

そのためには税のシステムをもう一段イジることも大きな改変のための第一歩ではないかとは思うのですが・・・。

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