病院で高齢者を診ているとその仕事の大きなパートとして水と栄養をどうするか?という大問題が持ち上がってきます。
高齢者であれば例えば何かのタイミングで、脱水をきっかけにして食事自体が全く摂れなくなったり劇的に食事量が減ってそのまま低栄養のサイクル、更なる脱水と腎不全、腎不全、心不全に突入することは普通にあります。
若い人であれば何ということもなく寝起きして翌日は何事もなかったように過ごせるような行為が高齢者には大打撃として命に関わるようなイベントになったりすることも有るのです。そうでなくてもベースラインが低く、問題にならない「範囲」と言うものの幅が狭い高齢者はたった一回バランスが崩れたことがきっかけで文字通り命に関わるようなイベントが発生したりするのです。
一旦そういう状態になった高齢者、超高齢者を若者と同じように急いで治療するとその「戻し」が過剰な負担になることもありますので難しいところで、計算に基づいてある程度ゆっくり戻していく事も大切になるのでした。薬の投与量も腎機能や肝機能に応じた量の計算をすることが大切で、若い人や普通の中年女性などと同じような量と回数の薬の投与を行うことで却って腎機能にダメージをあたえることも稀ならぬことです。
そんな高齢者の食思不振をどうするかということですが、これは日本中の医師がいろいろな場面でいろいろな努力をしていると思います。勿論、服薬によって「食欲」をあげていくという方法も昔からありますがそれが効かないこともたくさんありますし、嚥下能力がていかしてやはり食べられない飲めないということも脳血管疾患や加齢に伴って何時でも起こり得ます。
これらに対して末梢から輸液を行い、電解質や体内の水分調整を行いつつ体の調子が戻っていく努力をすることもあれば、中心静脈栄養のルートを確保して水やカロリーその他の必要成分を体内に送り込むこともありますし、経鼻チューブで経腸栄養を確保することもあります。暫く前に大流行した(特に日本では多い!)胃瘻という栄養・水分投与法もありますが、私は基本的にこの胃瘻造設も70歳台までと考えています。
こういう事に対する考え方は医師の中でもまさに様々ですが、生物学的寿命=食べられなくなる、という事だと私は考えます。私の場合、家族の方とも納得のいくまでお話をする中で、高齢者を病院に預ける殆どの方々が胃瘻という選択を「それはして欲しくない」という様にお話をされます。(特にキリスト教国かつ先進国ではその手の延命は「虐待」という考えもあるようです。)
私の基本的な治療方針は「己の家族にしないことは人にも可能な限りしない」というもの。技術的には可能なことであっても、なるべくならしたくないことはやはりありますが、御家族のたっての希望で念を押しつつ確かめながらそれを施行することもありますが、この5年で私自身の患者で胃瘻を設置した超高齢者はゼロです。他の先生の患者さんの胃瘻造設を手伝ったことは数回ありましたが。
人間、生き方とともに死に方とうのも元気なうちにきっちりと考えておくべき時代だと本当に思うのです。日々生き死にと向き合う仕事だからこそ、そういう人達を見ていて強く感じるのでした。
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