2020年9月11日金曜日

生きる意味

実はこの病院に勤めだして既に同僚の先輩ドクターだけでも二人見送っています。

勿論、最後を看取ったという意味ですが、たったの六年で御高齢であった先輩医師を既に二人見送った事は私に「いつかは必ず来る」自分の最後というものを時々ふと考えさせてくれる機会を与えてくれることになりました。

生まれた者はいつかは死ぬ。生まれる前にお母さんのお腹の中でその生を終えてしまう子もいれば、生まれてすぐに亡くなってしまう子、旅立つ順番を守る不文律の約束を果たせずに不幸にも親より先に逝ってしまうことになった子もみてきました。また、平均寿命を大きく超えて100歳になってもピンピンしている人もいれば、60位でもう生物学的に本当にくたびれ果て老け込んでしまう人など人間の生は本当に様々です。

病院で日々入院している人々を診ていると、確かに何年も何年も療養病棟で寝たきりになっているお爺ちゃんお婆ちゃんも居るのですが、その人達の多くは脳血管障害や認知症などが元になってADL(日常生活動作)が低下した「果ての姿」として、ベッド上で中心静脈栄養や経鼻チューブ、胃婁設置などをされ挙げ句にピクリともせず寝たきりの生活をしている状態が多いのです。

最初に受け容れた医師の方針やリハビリの導入の違いなどで、こういった高齢者や脳血管障害の人達の「その後」と言うのは比較的大きく異なるのですが、既に何年も症状が固定された状態で別の病院やドクターから自分に引き継がれてもADLがほぼ寝たきりのみという状態ではリハも関節拘縮の改善と褥瘡の予防等くらいしか目標を設定することが出来ず、実際のところなかなか医師の心情としては厳しいものがあります。

医師によっては当然、その様な状況の患者さんの存在に怒りを募らせ、医師のフォーラムなどでそれに対して「やってられない」とか「こんな恐ろしい風景に絶望感を覚えた」とか云うような記述をされる方々が居られるのですが、実際のところ日本の高齢者医療の多くは在宅を含めそのような患者さんを診ることが普通です。

日本人の平均寿命のカウントの伸びは正直なところこういった「寝たきり」だけど手厚く看護されている高齢者の存在が延ばしているのも間違いない事実なのです。他の国で同じことをしたら高額医療費で家族の生活が吹き飛ぶ可能性がありますが、日本では国家の保護のもとなんとかかんとかやってこられているというのが正直なところでしょう。

では自分は同じ様に生きたいかと云うと、これは即座にNOで、やはり病気は持っていても可能な限り「ADLを維持した状態」で生きたいなと感じてしまうのです。実際、私の弟も生まれた時の低酸素状態による脳への障害が原因で既に公的施設にお世話になり始めて40年ほどになりますが、近い存在である弟も最近はものの飲み込みがやや悪くなり始めてきたということもあり、栄養の摂取法に関して経口以外の選択枝を考察しなければならない時間がやって来ると思われるのですが、兄としてはどう考えるべきか弟の親である両親と相談して決めるべき時が近々来ると覚悟しております。

言うは易し、行うは難しとはまさにこのことですが、命の大切さを毎日考える立場にあるからこそ考えられる結論というものもあるでしょう。

自分自身の最後は枯れるような感じが理想なんですが、人生なかなかそうはいきますまい。とはいえ、55年も健康に生きてこれたら後はオマケであって、時間の許す限り人に尽くす人生にすべき・・・くらいに考えるべきかとも思っています。


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