2020年5月27日水曜日

老いたり病を得た後の人生の終わり方を考えておくべき

今現在、自分の患者さんになる人達はやはり自分の両親と同じ様な年齢の人達が多いです。

認知能力の低下の度合いも体力などの低下の度合いも人それぞれ。まさに1000人いれば1000人の異なった老後が有るわけです。ヒトを裸にしたときには最初に書いたように知力と体力の差がまずは考慮の対象なわけですが、実際にここにはその人の財力と家族との関係性という要素が深く大きく噛み込んできます。金があるから幸せな最後ではないというのも沢山見てきました。なんとなくそこそこっていうのが一番良いみたいです。金無くて葬式あげたい人物が葬式を出来ないのも寂しいし、人生の最後に誰もいないのもちょっと寂し目でしょうか。

しかし、やはり齢80を超えてくると本当に一年一年がその人の外見と中身をともに大きく変えていくのが手に取るように判ります。そんな年齢の人達が病院に入院しては退院していく毎日ですから50代の人なんかが入院してくると「若いな」なんて言う事になるんです。

若い人達の入院の場合は多くが交通事故後とか脳血管疾患によるリハや寝たきり状態、癌の末期の看取りや次のオペまでの待機などに利用される事が多いですね。

私の老親は寅年生まれ。今年二人共誕生日を迎えて82歳になりますが、己の死に様は二人共既に決めていて、結論はシンプル。要するに「何もしない」というものです。もし事故とかに遭っても生命維持装置は装着厳禁。胃瘻やNGチューブなども不要。多分高カロリー輸液も拒否なんでしょうな。それでも、私は点滴一、二本だけは毎日してあげようかなと思っています。急速に水を完全に切る、もしくは栄養ゼロの水だけの最後というのは本人にとってかなりの「痛み」(自殺した人によると本当に痛いらしいのです。)を伴うらしいので・・・。

その逆も実は同じで、万一私に将来に回復の見込みがないような状態になったり疾患を得たときにはやはりスイッチを切らなければならないような装置は装着してはいけないと言ってあります。いわゆる相互互恵の形式とっでも言うべきでしょうか。
おまけに私自身は戒名不要、葬式不要。速攻で骨を焼いてもらって、そこらあたりにコッソリわからんように撒き散らしてもらって、木の栄養にでもなって再び花と散るのがイイですね。焼き固めてもらって娘たちのサイコロキーホルダーとなるのもありですが。w

老いも病も死の形も皆それぞれ。一人として同じ死などこの世にありません。老いと死を子供達に見せて死んでいくのも子供達への立派な教育。

死ぬからには「お父さん・・・w」と涙の中にやっぱダメオヤジらしさを滲ませた最後を見せて笑いを取りたいものです。


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