2025年8月31日日曜日

地獄の犬山城

義理母は昨日のコンサートで疲れてしまった事もあり我が家で娘達とお留守番。

義理の妹は折角名古屋に来たんだからという事で、こちらに来る前から観光というものに執着があったようで、その期待に応えるために嫁さんと二人でどこにするのが観光らしいか?という感じで岐阜の金華山やその周りの温泉群、そして犬山城とその城下町などを候補として当初考えました。ドカンと伊勢神宮というのもあったのですが、行くのならもう少し早い時間から出発しないとダメだねってことで、早く起きないという前提で設計された計画は最終的に犬山城と犬山の城下町いうもの。

昼前に犬山へ向かったのですが外は既にギラギラ!

車に全員で乗り込んで犬山へまっしぐら。犬山への観光でのアプローチは久しぶりでしたが、今回は親父とでは無く義理の妹と息子と嫁さんで城へ行く事になりました。新しく出来た庇も影も何もない広い駐車場の中に車を停めて自販機でウーロン茶を買い込んでスタート。直ぐに城に登る事にしたのですが、先ずは下の神社で嫁さんと妹が希望したいろいろなお守りを購入。更に城の入り口まで行くと息子と付き添いの一人は障碍者枠で無料でした。

犬山城は普通お城の外の方に雨の日も晴れの日も長い列を作って人が沢山待っているのが普通だったのですが、今日は流石にこの激暑の日差しの中でそのような列は無し。そもそもこの糞暑い中で出て来る人間の方がおかしい訳なんですけどね!w

垂直の壁の如き木の階段を昇りながら「婆ちゃん連れてこんで良かったわ!」と何度もお互いに言い合うほど酷い勾配の階段を上り下りしながら滝の様な汗を流しての行脚となりました。それでもトップあらの眺めは素晴らしく、遠く名古屋も奇麗に見えますし、新しい星のリゾートもしっかり裏に見えていました。

その後は城の外にある売店で珍しい瓶入りのダイエットコークとアイスクリームを注文。それから神社でおみくじなどを購入。妹大吉、息子は末吉、嫁さんなんだったか忘れました。w

ここからは次の観光計画となる城下町での種々の美味しいもの体験。結局スイーツと種々の飲み物と串焼き、焼きそばなどのB級グルメをあちこちで買い込んで日陰や店の中のクーラーの下で其々の味を愉しみました。最後は暑さでヘロヘロになって家に直行。今回の観光では4人で十本では足りないほどの大量の飲料を買いました。(今後は清涼飲料水の会社の株を買うのが正解かも!)

家で待っていた義理母をピックアップして今度は近所のスパに向かいました。夏休み最後の日の夕方という事だたためかメチャクチャに子供と大学生風の若者が多くてイモ洗い状態。これはちょっと嫌だなって感じ。orz 息子と風呂の中で隙間を探しながらの入浴というトンデモ入浴でした。

結局、スパでは飯を食べるのに一時間は待ちそうだったのでサッサと諦めて長久手のモスバーガーへ行ってそれぞれが気ままに注文して一日の疲れを癒しました。帰りにスーパーでいろいろと食べ物飲み物などを買い込み一日の行事終了。そこから妹と母親を近くのホテルに落とし明日の朝までサヨウナラ。

今日は本当に疲れ果てての一日で、私はあっと言う間にベッドで眠りに落ちたのでした。

2025年8月30日土曜日

松田聖子のコンサートとな?

今日は嫁さんの実家である長崎から義理母と妹、弟がやって来ました。

目的はナント松田聖子のコンサートを見る為にセントレアの愛知県国際展示場にまで来たのです。嫁さんと飛行場に迎えに行って三人をピックアップすると元気そうでした。飛行場の中では24時間テレビのイベントでキンタローやニッチロー等が出ていましたが、何だか寒かったです。w

直ぐにセントレアの中にある丸屋でひつまぶしのお櫃を注文し、皆で丁度良い具合に分割して食べることが出来ました。このお櫃のひつまぶしとちょっとした突き出しで2万円でした。やっぱり鰻はちょい高ですね。^^

さて、外は反対に異様に暑くて、セントレアから少しでも外に出てみるとそこは「むわッ」とするレベルの災害級の暑さ。よくまあ、こんなところの滑走路が熱で波打たないなと感心してしまいます。そういった事に関する記事を読んでみると実際にあまりの高温・猛暑になるといろいろな事が起きるようです。

さて、コンサート会場のほうは4時開演なのですがグッズ売り場の方は一時半ごろから開いているという事で、私は長女だけを近くの東海市に連れて何時もの様に種々の中古グッズを見て回りました。しかも三軒!w その後は更に常滑の陶器のエリアを見て回ったのですが、実は彼女の目的は昭和レトロの店に置いてあるビックリマンシールのガチャをやる為だったとか…。orz
基本的に「悪」タイプのシールしか出て来ないのですが、それはまあ所謂「要らない系のシール」が集められている訳ですから仕方ないと言えば仕方ないのですが。

それから急いで娘を会場へと送り届けたのが4時20分。なんとか時間に間に合うように送り込みました。その後、私自身は直ぐに家に戻って一休み。更に夜になっても特に何も食べる皓t無く待っていましたが、8時過ぎに彼らが帰って来て頼んでおいた期間限定のダブチダブルマックを食べてその日の締めといたしました。

嫁さんは満面の笑みを浮かべて帰って参りました。謎の松田聖子Tシャツと謎のスイートピーの造花をもって帰ってきました。幸せな人です。^^



2025年8月29日金曜日

突然のお別れ

突然の別れとなりました。

一か月ほど前、仕事中に気分が悪いと言って私の内科外来に来られた師長さんがおられたのですが、バイタルをとったところ異様に高い血圧が測定されました。いわゆる医学的には高血圧緊急症というレベル。

注射を投与して適正血圧迄降圧しつつ画像検査を入れてみると心血管の壁に通常はみる事の無い様な異様な肥厚と変性が起こっているのみならず、腹部大動脈に解離まで見つかりました。この時点で三次救急である大学に搬送する事を決定しました。

御本人に状況を手短に説明をしたものの、イマイチ自分がそのような重篤な状態である事への認識が薄かったため御家族への説明を入れる為に電話。この時点で大学病院への診療情報提供書を仕上げて画像のCD-ROMを作成して救急車を呼びました。

受け容れて下さった大学病院の方も最終的な診断には難渋されたようですが、その後に間接的に病名を知ったところ大動脈炎とのことで、集中的なステロイドによる加療と状態安定化後の大動脈解離への血管置換術が待っている状態となりました。

ところが、この後不測の事態が血管内に発生したことまでは知っているのですが、取り敢えず一旦家庭へ戻って状態が安定化してから手術をという事で自宅で待機されている時に不測の事態が起きた様でした。私の勤務していた病棟にも息子さんと揃って一時退院の御挨拶に来られたのに…。

物凄く腰の据わった根性のある師長さんで、私とはいつもざっくばらんに馬鹿話をする仲でした。

通夜に参加させて頂きましたが、私には哀しみよりも喪失感と強い憤りの方が残りました。あんなに強そうで、蹴ろうが叩こうがビクともしないような強い姉御肌の師長が何の別れの挨拶も無しに先立っていく事などあって良いのかと。

遺された子供さんやお孫さん達の事を思うと本当に何というか言葉もありませんでした。

恐らく苦しみや痛みも無い現世からの旅立ちだったのだろうと思いたいのですが、やっぱり寂しいの一言です。あのガハハという豪快な笑いと明るい笑顔を忘れる事は私の人生が終わる日まで無いでしょう。

2025年8月28日木曜日

親父の誕生日

実は昨日は親父の誕生日でした。

ナント御年87歳!元気に歩き回っていますし、頭も「私から見て」ボケてはいません。何というか、やっぱり転倒のインシデントは月一程度起きていたのが、私が「杖使うと良いよ」と言って以来、杖を振り回しながらも幸いにして一回もこけてはいない様です。^^

高齢者というのは店頭に伴う頭部打撲や鎖骨骨折、そして何より大腿骨頸部骨折による「オペは成功したものの、歩行は不可になる」というような手術成功、治療失敗などというような事態も有り得るからです。

それでもこの年まで取り敢えずは元気で生きて、家を守ってくれていますから私としては万々歳の大助かりです。実際親父が田舎にいてくれるからこそ助かっている事は多くて、人が実家に居る事で成り立つ種々の役割を一人でゲートキーパーとして守ってくれています。

誕生メールをLINEで送って「次は喜寿、その次は卆寿を目指しましょう」と言ったところ親父から先ず返ってきた文言は「ありがてな」という謎の文言。例によって打ち間違いと思われました。w

その後「ありがとう、とににかく頑張って見るよ、おかしくなつら病院でも施設も入るよ、悪い病気になつたら誰にも迷惑かけたくないから、ところで銀行のカ⇁ド持つ帰った?分からないんだよ?」という打ち間違いだらけの何時もの文章。言いたい事は十分にわかる可愛い間違いです。^^

こうやって両親が超高齢になってくると来年の事は判らなくなってきます。それでもここまで来ると「ボケも無く元気に歩けるうちは長生きしようぜ!」になってきますね。90になった親父。見てみたくなってきました!

2025年8月27日水曜日

帰国してきた長女を迎えに

今日は仕事を終えてセントレアへと向かいました。

理由は二つ。一つ目は勿論アメリカ、プエルトリコに行っていた長女が羽田経由で帰って来るのでそれをピックアップする事。もう一つはセントレアに早めに着いてその前に空港の中にある「ふーの湯」に浸かる事でした。

バイト先の仕事を終えてゆっくりと飛行場に向かい、駐車場に到着したのが7時ちょっと過ぎ。娘の飛行機の到着迄まだ一時間以上も時間がありましたので、湯を愉しむ時間は十分にあります。駐車場に車を停めさっさと降りて飛行場の中二階にある「ふーの湯」に入りました。

入湯料は1500円で貸しタオル付です。人はそんなに多くありませんでしたが、アジア系の外人も白人も入湯していてなかなか国際色豊かなところは国際空港の銭湯らしいと思いました。

外に見える滑走路を離着陸する国内外の色々な種類の旅客機を眺めながらフルチンのままで数人の同年輩前後の人間達と横並びでジッとしていました。寒くも無く暑くも無く最高の状況での飛行機の群れを眺めることは何時来てもこの銭湯の特筆すべき特権です。^^

さて、8時過ぎるくらいにはこの銭湯を出て長女の到着する予定の8:20に向けて歩みだそうとした時に到着便の一覧表を見てみたら到着が16分遅れの表示。orz
早く着くならまだしも、遅れるのは…。まあ、しかしそれでもポケモンをしながら待っていると娘がゆっくりと荷物をカートで押しながら出て来ました。

「お疲れ」という感じで13時間半+αのロングフライトを労い帰路へ着きました。しかし長女の口から出て来るのは変わってしまったアメリカの悪口ばかり。もうグリーンカードを保持する気力も魅力も失せてしまったとの事で、トランプが万一任期を全うしてしまったらアメリカはぶっ壊れるだろうなっていう予想を話してきました。

もし途中で彼が病気で亡くなるような事があってもバンスが出てきて同じ事をやるだけっていう感じで「ヤバすぎ」って嘆いていました。

結局家に帰る前にスシローに寄って二人でパクパクと寿司を食べて次女へのお土産を追加注文して帰宅。

家では家族全員が待っていて持って帰って来た大量の本とお土産が早速配られました。私はプエルトリコの大量のTシャツや長女のアート作品群の写真。次女と長女は実に楽しそうに面白い話をしながら大笑い。何だか楽しい時間が戻ってきた感じです。

私は私で直ぐにベッドに向かい疲れてそのまま寝てしまいました。

2025年8月26日火曜日

訪問診療の仕事

笑顔を見ることが出来ること。

それが訪問診療の仕事をしていることでの最大の喜びだと感じています。実際には訪問診療というのはどんな事をするのかというイメージが湧かない方も沢山おられると思いますし、そんな事とは無縁のままその一生を終えられればそれはそれで素晴らしいいことです。

しかしながら、今の時代入院して病院で最期を看取らない、もしくは家で家族の手助けや訪問看護師の手を借りながら種々の障害を乗り切る形で人生の荒波を超え、そのエンディングまで積極的に向かって行こうという方は日本中に沢山おられます。

そういう方々が家で頑張っているところへ診察・診療に出向いてカルテへの記載や処方を行うのが訪問診療。高齢者が多いが故に時にはお看取りの確認になったり、脱水その他の緊急事態から入院手続きに飛んでいったりなどということをすることもままあります。

そういう大変さもあり、病院の中で入院患者さんを加療したりするのとは違って道具や薬を直ちに供給することもできず、場合によっては他院への紹介搬送となることも多いことから医師としては手足を縛られた世界での医療行為のような状況になってしまいますので、合わない先生はあっという間にその仕事から離れていく方もおられます。

私の場合は週一回の外の仕事としての訪問診療であって、それ以外の日は外来や病棟における日常の診療は自分で行えますので、そういった意味では医師としてのフラストレーションは溜まりません。

ですから、外に仕事に行く日というのは私にとって患者さんとそのご家族との出会いが出来る日でして、幸いにして患者さんやそのご家族が私の到着を心待ちにしていることが多い状況が続いておりますので、ニッコリ笑ってくれたりどこまでも見送ってくださる高齢の患者さんをみているとこちらが癒やされますね。

それでもそういった方々の年齢の最頻値は九十前後。年単位で診療していく中でお見送りさせて頂くことになる方も当然ですが数多くおられます。この前も指を折って数えてみましたが、この数年間の私の診療の期間中でもそうやってこの世を去られた方々が20では足りませんでした。

その方々やその方々を囲んでおられたご家族、ご親族のお顔が未だに鮮明に脳裏に浮かび上がってきます。ご家族からかけられた最後の過分の感謝の言葉を思い出す度にこの仕事も悪くないなと思うのでした。

2025年8月25日月曜日

韓ドラ視る嫁さん

トンイ、ソドンヨ、奇皇后、オクニョ、ホジュンとうちの嫁さんの韓ドラ視聴が止まる所を知りません。

韓ドラと言っても上記の如く歴史ものばかり。御存じの方から見れば何とスタンダードの、しかもなんと昔のなんていう感じになるんでしょうか?私はホジュンとチャングム以外は視た事は無いのでなんも言えませんが。

取り敢えず嫁さんがこうなったのは「ありとあらゆる」韓ドラを視まくっている長崎の友人からチャングムのDVDを借りてその虜になって以降です。チャングムを視聴し始めた時は私がアメリカで在米韓国人の研究者仲間からホジュンのテレビ・ドラマのコピーを借りて寝る間も惜しんで視たのとそっくり。ただし、私はチャングムを視た後は二度と韓ドラに戻ることはありませんでした。

嫁さんが見ている時代劇韓ドラをチラチラと横眼で眺めているとどのドラマで同じ宮廷セットが使われ、同じ街角が現れ、同じ人達が役を変えて出ているばっかりで、基本は宮廷内の内紛と罰則のシーンの繰り返し。しかし、ストーリーの展開も振れ幅大きく最後はそれが逆に振れて大どんでん返し!という感じでしょうか。

それでも面白いものは面白いというのがドラマ。それに喜びを見つける嫁さんを止める事は出来ません。良く聞くと、現代ものの韓ドラは視ないんだそうで、視るのはあくまでも歴史ものなんだそうです。理由は判りませんし聞こうとも思いませんが。

筋書きが単純で、ドラマのアップダウンが読み取り易いのが韓ドラだと私は思っていますが、嫁さんもその「最後はスカッとする」というところに惚れているのかもしれません。

何時になったらこの韓ドラウォッチング終わるんでしょうか?

2025年8月24日日曜日

長女が帰ってきます

二週間の旅行から帰ってきます。

東京に2日滞在した後DCに向かい友人がピックアアップしてくれた後ボルチモアへそこで向こうに溜めていた50冊ほどの注文済みの本を持って帰るようです。

そもそも娘は電子的なデバイス上で読む本が嫌いで、そこは私と一緒。紙を捲りながら読む人です。私自身の読書習慣が彼女と違う所は私は一回読んだ本は余り二度読みはしない質ですが、彼女はまさにボロボロになる迄好きな本を何度も読むという人。まあ、私はノンフィクション、彼女は余りどんな本を読むのか知りませんが、私ほどはノンフィクション系には寄っていないと思います。

さて、彼女がボルチモアから向かった先はプエルトリコ。プエルトリコ人の女の子が娘を自宅に招待してくれてそこで滅茶苦茶美味そうなエスニック料理を振舞われる日々だったようです。また、海岸の景色なども送ってくれましたがやっぱり日本の景色じゃないよね~という感じ。
ココを発った後はNYに移動してNY・クイーンズに居た頃の友達に家に招待されて残りのアメリカ滞在の日々を過ごしているようですが、長女にしても次女にしてもホンマに世界中に友人がいる状態なので、どこの国に行ってもほとんど宿泊代には金がかからないみたいだし羨ましいもんです。

残り二日。楽しんでアメリカの空気を吸い直して戻って来てほしいですね。
それにしても、今回の入国審査の話を聞いた限りではアメリカにはもう少し頻繁に戻らないとこの糞政権下ではグリーンカードの維持は難しそうですね。

まあ、次回以降は娘自身が情報を集めるでしょうけど!


2025年8月23日土曜日

法は最低限の道徳・裁判官の死

恐らく高校生であれば確実に一度は習ったことのあるお話としてヤミ米を拒んでお亡くなりになった裁判官の歴史を知っているのではないでしょうか。

実効性の無い、現実を無視した悪法であった食料統制法に従い、一切のヤミ米、違法な食料を口にせず餓死された東京区裁判事山口良忠氏。良く言われる悪法も法なりというソクラテス的判断がこの中にはきちんと含まれると思うんですが、法そのものの正当性と人間の生存権のはざまで揺れた氏の行動により当時の日本は大きな衝撃を受けたと言われます。

彼の行動を「愚直」とか「現実を見ぬ愚かな行動」等と言って嗤う輩も居たのでしょうが、彼のこの行為はまさに「一粒の麦もし死なずんば」の典型的な一例としてその後の日本の法理にデカい影響を及ぼし、様々な改善の大きなソースになったと言います。結局、彼の行動は戦後の日本における法の正義、人間の尊厳などの根源的命題に光を当てる切っ掛けとなったのでした。

終戦記念日から一週間ほど経った今日ですが、実は私の母親も家族の餓死を避けるためのアシスト要員として闇米を終戦当時運ぶのを実の母に手伝わされ、線路に沿って歩いていた時に官憲に捕まり持っていたものを全て剝ぎ取られて一生忘れられないような悔しい思いをしたそうです。

今その現場に私が出会っていたら多分その警官をメリケンでぶん殴っていたと思いますが。

そういう「身近な話」としての悪法の存在を戦後80年の今になって見直す事で、我々の日常の中に存在する悪法の存在にしっかりと目を向けなければならないと思い直しています。悪法は常識的な判断が罷り通る時代には埋もれてその姿を顕しませんが、闇が光を上回る時世になってくると、闇の中で積極的に拡大解釈され世の中を押しつぶす道具として使われます。

決して恣意的解釈がなされる道具としてその条文が解釈されることが無いように我々はしっかりと目を見開いておかねばならないと強く思いますし、このような事件でこの世を去られた先達の「気骨」に想いを馳せることがいつまでも必要では無いでしょうか。

2025年8月22日金曜日

こんな酷暑の時期の散歩

週に一回程度の間隔で定期的な散歩をしています。

私の散歩は大したこと無くて、一人でする時の散歩は基本一回8000歩程度。まあ一時間ちょっとの汗掻き仕事です。歩く時間は必ず夜の9時か10時ごろからですので基本的にはそれほど暑くは無いのですが、昼の空気の淀みがまだ少し残っている感じ。

オッサンらしく堂々と首にタオルを巻いております。

私の散歩は大したこと無くて、一人でする時の散歩は基本一回8000歩程度。まあ一時間ちょっとの汗掻き仕事です。歩く時間は必ず夜の9時か10時ごろからですので基本的にはそれほど暑くは無いのですが、昼の空気の淀みがまだ少し残っている感じ。

首にタオルを巻いて更にペンダント・タイプのダウン・ライトを吊り下げる事で、闇の中から突っ込んでくる可能性のある自転車等の注意を惹く作戦です。早歩きで歩き出して20分前後で首周りや頭からは噴き出すように汗が出て来るのが判ります。しかし、この時間帯くらいから後は実に淡々と脚が前に進みますので、実はそれほどきつくはありません。

最終的に一時間以上歩き続けてアップダウンの緩くついたイオンモールに向かって坂道を進んできた道を再び藤が丘方面に向かって戻って行きます。何時もの様に途中で擦れ違う人々や走り去る車を見ながらの「世の中」をジッと眺める良い機会です。

金土日という時間帯に散歩をすると、長久手の田舎の方に向かって走り去る旧車やハイパワー系の改造車が走っていきますし、散歩をしたり走ったりしている人達もいます。また、アピタやイオン・モールで仕事を終えて出てくる若い人達を横目で見ながらの散歩です。出てきた若い人達が結構カップル風なのは何時の時代もどこの職場でも普通の景色ですね。^^

夜間の散歩に大事な要素は靴と着る服の色。明るい色でないと衝突等が危ないので白が基本でオレンジや黄色を着て歩く事、そして歩く時に足が痛くならないどこまで歩いても軽いシューズでないといけません。既にこれらのポイントは押さえていますから毎回問題は無いんですけどね。

雨さえ降らなければこの時期の散歩が一番楽。寒い時にも勿論散歩はしますけど、家を出る時にどうしても心が萎えてしまいます。心の弱い自分に冬は鬼門の季節。今からその日に備えて下半身だけでなく心も鍛えておきたいと思います。w

2025年8月21日木曜日

そろそろキャンプじゃ!とは云うものの熊が少し怖い

もうそろそろキャンプに行かないと痺れが切れそうです。w

自分が勤める病院の看護師さんの送ってくれるキャンプ情報などを読んでいると間違いなく今はキャンプ日和。ただし、夏休みの家族連れが少し増える週末などは今の所避けたほうが良いかと思われます。

私も近所や遠くも含めて比較的キャンプ場の下見というものには行きますし、ネットでの情報はきちんと収集しているつもりですが、痒い所まで手が届くという感じの情報は今の時代でもなかなか無いもの。そこは地道に人づての情報を掻き集めたり、下見に行ったりした時の情報をもとに再構成したり等という作業は必須です。

まあ、一番良いのは現地に行ってキャンプしてしまう事なんですけどね。如何なる間接情報も直接己が経験した事実には勝てません。

やっぱり木曽駒の方などの話を聞いていると既に今の時点で夜は風が吹くと半袖で来たことを強く後悔するレベルの気温なんだそうです。それでも夜のキャンプ場で一人焚火を焚きながら美しい星だらけの夜空を眺めての食事とビールは極上の体験。何ものにも代えがたい経験の一つと言って良いでしょう。

既に頭の中にある幾つかの候補の中から今こそ「あそこにするか、ここにするか」と絞っている途中ですが、何の事はない結局ステアリングを握った瞬間に「やっぱあそこまで足のばそう!」という瞬間はあるもので、結局は気の向くままと云うのが正解。それをしたくなければ予約を入れておくしかありません。

さて、ここで最近は大きな疑問符が一つ付くのです。

それは熊の出現の事。キャンプ場というのは人里からは離れている事が極普通で、基本的に山の麓等というのが当たり前ですから、最近の「人里に降りてきてる熊」アドというインシデントと等とは比べものにならない程「熊」に遭遇するリスクは高いと想像してしまいます。

実際、愛知県とその周辺エリアでの熊の目撃情報のマップを見てみると豊田や豊根村その他で結構な頻度で毎年みられていたりしますし、長野などはもうびっくりするほど。マップの全国版はここにありますが、舐めてはいかんなという一言に尽きます。

2025年8月20日水曜日

移民の国は衰退するのか

移民で成り立つ国で移民を制限したらどうなるかという実験が今まさにアメリカで行われています。

アメリカに住む人間なら誰でも皮膚感覚で理解していることですが、ヒスパニックと言われる人間を最大とした不法移民の構成が実際にはどうなっているかに関して2022年時点での推計は次のようになっています。

不法移民の出身国は多岐にわたりますが、主要な国別の割合は以下の通りのようです。「メキシコ: 約400万人(不法移民全体の約36%)。2007年の700万人から減少しているが、依然として最大の出身国。 中米(エルサルバドル、グアテマラ、ホンジュラスなど): 約200万人(約18%)。近年、中米からの不法移民が増加傾向。 アジア(中国、インド、フィリピンなど): 約150万人(約14%)。特にインドと中国からの不法移民が増加。 南米(ベネズエラ、コロンビアなど): 約100万人(約9%)。ベネズエラからの移民が近年急増。 カリブ海諸国(キューバ、ハイチなど): 約70万人(約6%)。 その他(ヨーロッパ、アフリカなど): 残りの約17%は、ヨーロッパ、サハラ以南のアフリカ、中東などからの不法移民で構成。

また、最新の統計ではアメリカ国内にはいつも1000万人を超えて1100-1200万の不法移民が存在していると言われています。日本の3倍弱程度の人口を持つ国家ですから、その数を日本に当てはめると400万人にものぼるというから物凄い数ですよね。

では実際に2024年時点で日本にいると言われる不法移民の数はというと「ベトナム: 約15,000人(全体の約20%) 韓国: 約13,000人 中国: 約9,000人 フィリピン: 約6,000人 タイ: 約5,000人」となっていて、まあ桁が2つ違いますね。

しかしながら、国家の成り立ちがそもそも異なる状態で有るかの国と我が国をシンプルに比較するのも有り得ない話で、国力の源泉が移民で成り立つ国がアメリカというのは厳然たる事実。学問にしてもスポーツにしても「外から入れた血」というものがアメリカをアメリカたるものにしているのは異論がないでしょう。

移民排斥で旗振り役のトップのヒト取りであるルビオ国務長官なども皮肉たっぷりの状態で、兄弟や親父のレベルで実際はそのアメリカにおける人生のスタートは不法移民そのもの。まさにお前が言う?状態です。w

大統領の妻もこの前までは外国人。しかも戦犯を生んだ国から来たヒト。いわゆる犯罪者という人間達を己の国に入れたくないのはどこの国であっても当然。しかしながら、それがそのまま外国人、そしてその延長線上にある人種と宗教による外国人の排斥へと進んでいったとき、(実際にそこまでもう事態は進展していますが)アメリカのこれからの数年間はおそらく国力は低下の一方になることでしょう。更に悪いことは、表面的にはすぐには出てこないアメリカの露骨な差別的体質が外国人に与える心理的にネガティブな影響。

世界各国の学生を排除し、本来なら残っていってアメリカ自身を発展させてくれていた種(将来芽吹くタネ)も排除している今。氷河期の年輪のように「後になって顕在化する傷」というものが見える時期というのがそう遠くない未来に現れてこないか心配です。

外国人や異なる思想を持つ人間を排除していく純血化政策は90年前のヨーロッパに広く存在していましたが、まさかアメリカがそうなるとはね。

時刻の政治家を批判するとぶち込まれるような国は共産主義国家のみであって欲しいと願ったのはこの前までの夢だったのでしょうか?


2025年8月19日火曜日

これからやって来る外科医不足

厚労省というのは基本とんでもないお役所です。

結局、役所というのは組織防衛の塊みたいなところである事は歴史を紐解けば陸軍、海軍は言うに及ばず、面々と組織防衛に勤しんできた歴史があります。
勿論優秀な人材も多いのですが、基本的にそこに策謀というのが入って来て己の権益を守り、誰かを叩いて組織防衛を繰り返す事で恥を知らぬ間違いを平気で繰り返してくるのです。事務処理能力という意味ではスマートな人間が集まって、愚かな計画に全力で邁進するというどこの国でもみられる毎度の風景。

今、医療の世界は薬局、それも薬局の元締めたる数か所の組織とその上層部の人間達とが甘い汁を吸う世界になっています。その代わりに悪役にされているのが医師や製薬会社なんですけど、その誘導方法は極めて陰湿です。まあ、世論的には医療費がかかるのはナント医師の給料や薬が高いからという話。

一言言いたいです。「バカヤロー」が、と。世界でこれほどのレベルの医療をこの値段でほぼ何時でも受けられる事の素晴らしさは一体誰のセットアップのおかげという話です。しかも世界の中でも我々が払われている給与というのは下から数えたほうがマジで早いです。これは調べて頂ければ直ぐ判ります。

医療費の削減、削減と財務省の言いなりで宣伝してますけど、医療というものの質を保とうとすれば金がかかるのは当然だというのが全く理解できていません。我々は時間と体を削って医療の質を担保しようとしていますが、昭和の開業医の昔の栄華を基準にして何としても先ずは開業医を、そして次には小中規模の病院を潰しにかかっています。

集約化による医療の効率化を目指している様なのですが、最終的に表れてくる世界は大病院から離れている方々はみなさん我慢してね~!という世界。訪問診療も同じ世界になっていく事でしょう。

厚労省の作戦はずっと変わらずシンプル。一旦梯子を掛けてそこに上らせて皆が揃ったらそこの梯子を外すという事の繰り返しで、最終的には目標の所に追い込んでいく訳です。こうやって死滅しかけているのが日本の製薬業界。今になって薬品の骨格になる化学物質は日本で作ろうなどと喚いていますが、ここまでジェネリックを含む種々の製薬会社の基礎体力を奪い続けたのは厚労省とその後ろで厚労省を操る財務省の愚か者達。

国家の製薬能力がここまで崩壊状態に至って初めて慌てるという毎度の茶番です。その他にも私が思い出せる厚労省発の大きなもの犯罪でもエイズ薬害、新型コロナワクチンの大量廃棄、スモン、カネミ油症、サリドマイド、硬膜移植でのプリオン感染、未熟児網膜症、注射による大腿四頭筋拘縮症等々ここに書いていないモノを合せればとてもとても20では足りないレベル。

何れも国民の税金を再度掻き集めて補償金を払うだけの簡単なお仕事を繰り返しています。

今後、この厚労省の作戦の先に出て来る次の近未来の悲劇は外科医の大量不足。疲労困憊が代名詞となっている外科医は今や若手の多くが敬遠する仕事の一つ。癌のオペや外傷の処置を含め天才外科医と言われる人達だけでなく、ごく普通の外科医達も沢山不足してきます。

またまたいまになってこの予測ならぬ現実に表れ始めている外科医の不足に対してインセンティブを云々等と言っていますが、何を考えているのやら…。毎度毎度の継ぎ接ぎだらけの茶番劇です。

厚労省は馬鹿の集まりでも、医師の側は馬鹿ばかりでもありません。しかし、保険などに縛られない世界に去っていく医師が増えるとそうなるか?この先には国民の皆さんが実感する時代が来る事でしょう。比較的早く。

2025年8月18日月曜日

配偶者を探すという事

実は最近或る年齢層の女性を結婚相手として探して貰えないかとある方に頼まれています。

しかし、これが全然難しい…。先ず探して欲しいと言われても私の年齢層が知っている女性達と云えば通常は私の年齢周辺、そして大きくジャンプして私の娘達の年齢周辺となってしまいます。

となると、例え年齢が上の層でも多くの場合は例えば離婚歴でもない限りそういう男性の結婚相手となる女性はなかなか探し出せないという事になってしまいます。時々物凄い美しい女性とかでも結婚されていない我々の年代の人が居ますが、それがどういう背景によるものかというのは失礼にあたるので、本人はおろかその周辺にも聞くことは出来ません。

今の時代は結婚相談所もネットに移行して久しいですし、個人間でそういう情報を開示しあったりして真剣に相手を見つける人も今ではごく普通に居ると若い看護師さんやその他の若人も言います。四半世紀前と違ってネットで相手を見つけて結婚するなんて言うのを全く恥ずかしく無く言える時代になったからこそ!と言いたい所ですが、私が依頼を受けた相手の方はやはりどちらかと云うと私寄りの年齢。

ネットへの親和性とかそういうマッチング・サイトへのアクセスに対する心理的敷居の高さはやはり高い方なのだと推測してしまいます。

以前食事会でお会いした時の個人的な印象では本当に紳士で金銭的にも余裕がある真っ当な方という印象しかありませんでしたが、今の歳に至る迄あまりに仕事に一途過ぎた故に女性と出会う機会がなかなか作れなかったというのがシンプルな事実の様です。

私も機会ある毎に私と同年代の女性を中心に「どこかに40代でルックスが良くてお金も余裕があるけど結婚歴無いという男性との出会いを求めとる人は居らんかね?」という趣旨の発言をして尋ねる事があるんですが、なかなかコレと云ったリアクションが無いですね、ホンマ。

まあ、男性側も40代半ばになってくると「盲亀の浮木」というレベルでなければそういう女性と出会う事は難しいのでしょうか。

いや本当に出会いばかりは運命が準備したものという事が多いですからね。どうしましょ。(+o+)

2025年8月17日日曜日

変わってしまった夏休み

子供の減少だけでは無いようです。

そもそも遊び場で子供を見なくなったのは子供の数が俺達の頃より大幅に減っただけでは無いよな~と思っていたんですが、名古屋に来て感じたのは塾に行く子供達の多さでしょうか。更に考えてみると3つ目は家の中で遊ぶための様々なゲームの存在が大きいと思いますね。対人関係を気にせずに一人でやれるネットのゲームもあれば、他人とのコミュ力を滅茶苦茶試されるゲームもある訳ですが、何れにしても友達がネットの向こう側で待っていれば繋がって遊べる訳ですから一々外出は不要。昔の様に電話で連絡しなくてもスマホでタイミングまで合わせられますし。

そして最後の4つ目は今の日本の異様な暑さがとどめを刺す事になるのでしょう!

朝出勤する時に公園の脇を二回ほど通るのですが、この夏休みの間中、朝の時点で8∸9時までの間に小さな子も含めて子供を見たのはたったの一回。それもお爺ちゃんらしき人が公園の石垣に1歳ちょっと位とお思われるお孫さんらしい男の子を掴ませているのを見ただけ。

我々がチビ助だった頃はラジオ体操の後に家には帰らずそのまま遊んで過ごして大概母親に叱りつけられていたものですが、そんな事関係なくというかそもそも頭の中からすっかり消え去りアパートの外や隣にある大学の演習林の中で走り回っていたものです。

話しが戻りますけど、本当に公園では子供見ないですね。夕方は時々居るけどやっぱり俺達が子供だった時代のように「公園」はチビ達の金のかからぬ第一次の集合場所ではなくなったんですかね。

オジサン的にはちょっと寂しい気もします。

2025年8月16日土曜日

そんな事があったんだ…

実は今しているスマホゲームの三回目のオフ会を栄、今池で行いました。

一回目は6人でランダムな安酒屋集合。二回目は3人で超高級馬刺し店。そして今回、私の取っての三回目に参加するにあたって「本当は」名古屋で一番古い居酒屋である大甚を案内してあげたかったのですが、ここはお盆にはお休みをとってしまっておりまして熊本から東京へ行く途中でわざわざ名古屋に一泊して、私と飲み食いする時間をとってくれたE君に申し訳なかったです。

それでも、彼とはまず初めに栄にある居酒屋で待ち合わせてから飲み始めました。LINEでIDは交換してありましたので、今回も今どこにいるという事を教え合いながら店に近づいて行きました。店の前で待っている私にそっと近づいてきたのはまさに私の息子のような歳の若々しい青年。

忘れないように前もって松坂屋と三越で買っておいたフィナンシェと他のお菓子を彼に渡して席に着き予約通りの注文を待って飲み食いを始めました。所詮、安酒屋ですからこんなもんと思っていたものが出てきて私としては「あ~あw」という感じ。ネットの評価とは全く異なる感じで、オジサンになるとなかなかこういう感じの店の飯は美味いと感じられません。

しかし、そういう食事や酒とは違って彼との話は大盛り上がり。そもそも彼が何をしているのか、どこでどう暮らしているのか、そして最近はどうしているのか等の話が次から次へと出て来ます。このゲームをしている人間達って本当に驚くのですが皆バック・グラウンドが一部上場企業とかが沢山。そして彼も御多分に漏れずその一人でした。

ところが、途中から話がガラリと変わりました。盛り上がって互いの話をした後、彼が突然「こうやって話をして信頼できる方の様ですから話をしますが、実は二週間前に親父が突然亡くなったんです」という驚愕の話が飛び出て来ました。

「本来はココでこんな話をして居るべきじゃ無いのかもしれませんが、Xさんとはその亡くなる前から今回の約束をしていましたので、今回はこれを守らせて頂きました!」との事。私は茫然としました。しかも、父君が亡くなられたことを離婚をした実母さんには知らせていないという話。

いろいろと複雑な事情も話をしてくれたのですが、私よりも若い父君を突然なくしての東京行き、ましてや私の所へ約束を守るために寄ってくれた等となっていて大変申し訳なく思いました。

しかし、ここは名古屋。せっかく来てくれた息子のような歳の彼に名古屋を知らないまま帰って貰うわけにはいきません!そこで私が取り出した秘策は亀ちゃんでした。実際に連れて行くと、驚く事にメッチャ若い三人組と70代の御仁三人が居たのですが、全員が滅茶苦茶歌が上手くて驚愕。こんな亀ちゃん初めて見ました。

それでも最後は彼もバンドのボーカルである事を生かして猛烈な美声を披露してくれました。今晩は「普通は全く喋らない店のお母さん」が、饒舌に己の過去を喋ってくれたのが物凄く印象的でした。彼自身も大満足で「こんな店あるんですね!」といって大いに楽しんでくれたのでした。w

その後私が当然全部払わせて貰った後で、脇で歌ってくれた若者足しの分も払って店を出ました。必ずの再度のリアルでの出会いを約しての解散となりました。いや、実に楽しい飲み会でした!

2025年8月15日金曜日

今年の盆はかなりはっきり分かった

やっぱり名古屋はまだまだ田舎から集まって来た人達の街だって良く理解出来ました。

今迄の年に比べてかなりハッキリと車の交通量が減少している印象が強かったですね。統計なんて取っていませんから具体的にはどうなんだという事は判りませんが、今年はそれを感じることが出来ました。

実際にこれに関して調べてみると中部地方整備局のがデータを持っている様で、(県境、県内に関して)実際には通常期に比べて10%程度の減少の様です。また、道路交通センサスのデータでは高速を除く一般国道ではこの時期に特化した数値では無いものの、やはり減少を示すようです。

ただし、これもある程度推測通りというか高速道路に限って言うと名古屋市内を「通過する」交通量はやはり少し増えるとの事。やはり、高速を使っての都市間の移動では名古屋というのは東京や大阪の真ん中ですし、北陸道からのアクセスもありますから当然そうなりますか…。

上の様に(名古屋限定では無い)概算であっても、名古屋圏というのはやはりこの時期にはk人々が帰省する街なんですね。

たった十パーセントというなかれで、交通流理論のデータでは時間当たり2000台/車線を超えると流れが不安定になって来て、そこから数%の増加が発生しただけで一気にそれが渋滞の発生へと移行するとの事ですから、コンスタントな10%の変化が大きな影響を与えない訳がありません。

名古屋が田舎への帰省の人々によって人口が大きく減少しなくなる時代というのは何時になったら来るんでしょうかね?親のみならず爺さん世代の生まれも育ちも「名古屋」という時代になればそうなるんでしょうが、結局こういう仕事場を提供する都市というのはずっと田舎の人々を引き(惹き)続けて同じ事を繰り返していくのでしょうね。

2025年8月14日木曜日

恥ずかしいw

ホンマこいつは「馬鹿の極み」だなと嗤ってしまいました。

14日のノルウェーの報道サイトであのバカがノーベル平和賞を望んでいるとかいないとかで圧力をかけた事がリークされました。「ノルウェーのニュースサイトは14日、トランプ米大統領が7月にノルウェーのストルテンベルグ財務相と電話した際、ノーベル平和賞の話題に触れ、受賞を望んでいると伝えていたと報じた」との事。

具体的にインドパキスタン紛争やタイカンボジア紛争に仲介し、和平達成へ俺が尽力したというアピールを行ったという事ですが、ソレちゃうやろって話。w

おまけとしてはアラスカというトランプのいうところの「ロシア領土」に行ってウクライナ東部割譲という腐った条件を呑む様にウクライナに圧力をかけるという事で、もうお前の脳内はどうなっとるんよ?という話。

思考回路がジャイアンと全く一緒で、体がデカくて力があるほうに全て正義があるという発想。「お前のものは俺のモノ、俺のものは俺のモノ」という言葉がこれほど似合うバカも居ません。倫理観というものは全く欠落していますし、おまけに育ての親から強く歪んだ教育を受けている上にその親が押し込んだミリタリースクールでさえもその歪みを矯正できなかったほどの根っからの腐れです。

そいつが大統領になるんだからもう何をかいわんやという。

おいらノーベル賞が欲しいねん!という恥も外聞も無いアピールを恥の意識の完全欠落した男が行うという話。極めて自然ですネ!

昔から私は思っているんですが、ノーベル平和賞とノーベル経済学賞は要らんし、ノーベル文学賞もとてもとてもフェアとは程遠い賞だと思っています。平和賞なんてどちらがどう正義をみるかとか時代によって変わって来るし、経済学賞なんて人類の進歩に何も貢献していない、アメリカとヨーロッパの経済学者の内輪の人間同士の相互穿孔買い出し、文学賞もマイナーな言語で翻訳されない文章は受賞とは縁が無い訳で…。

なんにしろクダラナイ賞を望むクダラナイ人間の恥ずかしい話に久し振りに噴き出してしまいましたという一日でした。

2025年8月13日水曜日

長女がアメリカへ

地獄の逃避行を行っていた我々とは違い、長女は宮崎ブーゲンビリア空港から東京へ飛び立っていきました。

アッという間にというのはまさに飛行機での移動の事で、金で時間を買うという事を考えると本当に飛行機一択ですね。取り敢えず我々の苦労を尻目に長女は東京で二日過ごした後にアメリカの友人達に誘われこの夏遊びに戻って行きます。

リッチモンドには戻るものの、余りにも予定がカツカツに詰まっているとの事でMidlothianの自宅にも帰る時間が無いほどです。その後で直ぐにNYに向かって移動し再び友人といろいろな事をするようです。更にその後で今度はプエルトリコの友人に呼ばれて移動するとの事です。^^

娘達はアメリカの大学卒、カンパニーの人間らしく文字通り世界中に友人達が散らばっています。ですからあちらこちらの友人に「来い来い」という感じで呼ばれて、ステイしながらあちこちを旅しつつアコモデーションを受ける訳ですが、やっぱり私もそういう友人達は居るにしても彼の世たちの場合はもう一段階輪っかの拡がりと種類が違います。そういうサークルで育ったという事は私にとっては良かったなと思える結果を生み出せたと思います。

偏見無く世界のいろんな人間と英語をメディアとして使って付き合えるというのはどう考えても強みだと思えます。純粋な田舎のアメリカ人の様に自国最高とかいう観念はこれっぽちもありませんし。w

実は今回長女が入国するに当たってLINEを嫁さんに送ってきたのですが、予想通り入国審査官に何故こんなに長い間にわたって日本に居たんだとしつこく聞かれたそうです。まあ、難なく切り抜けたとの事ですが、まあ今の裸の王様たるトランプ政権下ではこんなもんでしょう。

娘にはプエルトリコで二枚プエルトリコらしいTシャツ買ってきて~とお願いしました。^^
娘は娘で50冊以上アメリカに買った本の取り置きがあるとの事でしたので、重い荷物を持って帰るんでしょうな。

2025年8月12日火曜日

X Japanの昔を知る同級生達

先日の同窓会の二次会で飲んだ極めつけの男達。

その中の二人は在学中は私とは殆んど接点は無かったのですが、今回の飲み会で滅茶苦茶楽しい男達である事が判りました。その二人の話はもう本当に高校の頃から如何にハチャメチャな生活をしていたのかというのがLIVEで眼の前に飛び出してくるような生々しい話の群れ。w

こういう話を聞いた上で彼らの今の職業(M&A等のコンサル業)を聞いていると、学校の勉強だけではとても測れない人間の能力なんていうのは当然の様に「ほぼ無限に」あるのだな~と感じました。

実はこの二人が東京で浪人時代から知り合っていたもう一人の高校時代の友人がいました。仮に彼の事をMと呼びましょう。彼ら二人は浪人だったのですが、Mは高校時代より競輪選手になると言い切っており、実際にプロの競輪選手になりました。

そのM君なのですが、実はイチローの知り合い。ある有名野球高校のユニフォームをイチローから貰ったり、イチローの使っていたサイン入りのバットを彼から直接貰ったりしているんだそうです。しかし、面白いのはこのMという男。

こういう頂いたレア・アイテムというのは普通箱にでも入れてとって置いたりするものなのかなと思うんですが、この男はそんな事は全く意に介さない奴でそのイチローのサイン入りバットをそこら辺りのスポーツ店で買ってきたバットの様に取り扱い、行きつけのバッティングセンターでガンガン使っていたんだそうです。それを見たイチローは「あ、ソレ使うんだ(^^;)」という感じで目が点になっていたという話。まあ、Mのそういうところが気に入っているんでしょうが。

また、この遊び人の二人が浪人をしていた時に実はまだまだメジャーデビューにまで距離の遠かった(大阪では既にそこそこ客が入っていたという時期)X Japanのヨシキと始終飲み歩いていたらしいんですが、東京ではほぼ無名だったんだそうです。

しかし、そこはX Japan!当然の様にライブのチケットを売る努力をしていたんだそうで、彼らもヨシキに頼まれてチケットを売り捌く努力をしていたんだそうです。ところがこれがぜーんぜん売れない。ほぼ全く。なんと、X Japanのこの時のチケットは300円だったそうなんですが、誰も買わない。w

そこで結局のところバンドのフルメンバーに向かい合う形でこの「二人だけ」がLIVE会場の観客という有り得ない演奏が行われていたんだそうです。今なら恐らくはこのチケット5000万でも買う人いるでしょう。何とも贅沢なこの二人の経験。一生ものですよね。^^

そんな二人の話から出て来た有名人との繋がりの小ネタでした。忘れないうちに書いとこうと思ったお話でした。

2025年8月11日月曜日

九州から出られないという悪夢

昨日の記録の続きです。

実は霧島を抜けて熊本に入ったあたりからナビの誘導が発表される交通情報に従って次々に方向を変えてくる事態が発生していました。しかもかなり頻繁に。その時は未だ熊本自体は厚い雲が覆ってはいても雨がザーザーという事は無かったので、内心では「福岡方面はそこまで酷いのか?」くらいに思っていました。これが夕方5時前後の話。

当初太宰府の入り口で通行止めなどという情報がラジオから流れてきてはいたんですが、更に内心では「まあ、何とかなるやろう」とか「俺達が通るころにはもう大丈夫なんじゃ?」とかいう根拠のないバイアスが私の予想にかかりまくっており、事態を甘く見ていました。

ところが、実際に福岡に近づいてきたところで大雨に遭遇。実際にワイパーを最高速にしていても全く前が見えない程の酷い視界不良になるに及んで「やばい」という事が実感として眼の前に拡がってきました。

全ての車が超ノロノロ運転で移動しており、危険一杯。暫くすると脇を通る車の撥ねるしぶきも酷く視界を消し去りました。ところがこんなのはまだ序の口だったのです。その後しばらくは曇り空の下で走ることが出来たのですが、通行止めとなってしまった高速を降ろされた後で更に一般道から福岡の都市高速へ入る事に。

この福岡の都市高速が鬼レベルの事態を産んでくれました。

さっきの全くワイパーが効かない状況がさらに悪化、しかし周りの車はそれほど速度を落とす事も無く移動を続けます。幸いな事に前の車のテールランプを見ながら走る事が出来ましたが、途中何度か前の車が分岐部から降りて行ったりすると前は真っ暗。夕方なのにもう夜のような感じ。

それでも何とか都市高速を降りた後が悲劇の追加となりました。
上のスクショがその時の異様な巨大線状降水帯なんですが、恐ろしい状況が少しは理解していただけますでしょうか。これがその後も形や位置を微妙に変えながら熊本の方にまで影響を及ぼし続けます。

結局のところ7時過ぎに福岡の街中をぬけたところで先が長くなりそうな雰囲気の中で一旦脇のファミレスに入って腹ごなしをしました。(これは正しい判断でした!)

ネットの情報を見ていくと時々刻々酷い状況になっている事が理解出来ました。以下のような道路の塀さ状況が発生していました。
宗像の手前で高速道路ん尾状況を見ると本当にあちらこちらで道路が寸断されており、実際にあちこち回り道してみても結局のところは大通りが一番クリーンである事が判明しそこへ戻る事がベストである事が判明しました。

結局、大通りはそのような状況である事が判明してた後も次から次に車が集まって来て枝葉の道から漏斗に集められた水の様に車が集まってきます。結局宗像の手前から次第に交通あ混み始めたのですがまだまだ車は前に進み続けました。

更に前進し続けたのですが、九州から出る方法は関門トンネルだけという事が判明。その入り口に向かって車を進めていくと入り口から10キロ程度の所で車の動きが見事にピタリと止まりました。殆ど路上は縦長の駐車場状態。

結局はこの10キロの道の上で有り得ない程ののろのろとした速度で水とお菓子を食べながらの前進。幸い家族は「もうダメ」という程の尿意や便意に襲われる事は無かったのですが、それはただの運。そうなっていたら脇に店も何も無い状況で死んでいました。

ナント、この10キロ程度の残り道を通過できたのは8時間後。orz

X上ではネクスコを非難する声で溢れていましたし、下関市民も「こんな渋滞って」という感じの驚きの投稿をしていました。公団の間違いの元はトンネル入り口にETCを付けていない事。そして、普通車160円程度の金を払う為だけに有り得ない程の大渋滞を作り出していた事。コレは人災です。多くン御人間の貴重な時間をこんな事に費やさせている馬鹿な上層部は腹を掻き切るべき。

先日のシステムダウンの時の大非難から何も学んでいません。ただの馬鹿だという事が丸わかりでした。
3時過ぎにトンネル入り口を超えてからは時速100キロに直ぐに戻りましたが、トンネルを超えてからは再びの普通道。しかし、超えた後も対向車線は停車状態の車列が延々と続いていました。距離計でサッとその車列長を見てみたところ、トンネル口から33キロ!有り得ないミスだなと思いました。

結局我々が撮っていた広島の新ホテルに到着してチェックインしたのは朝の6時過ぎ。orz

もうチェックアウトの人間と擦れ違うような事態になってしまいました。それでも部屋に入って歯だけは磨いてドサッと仮眠。嫁さんによると直ぐに鼾をかいて寝だしたらしいのですが、それも当然ですよね。w

チェックアウトの11時前には部屋を出ましたが、軽くシャワーを浴びて運転継続。当初考えていた軽い広島観光などは全て当然の如く放り投げて名古屋へ一直線。途中意識が飛びそうになる瞬間があって危なかったのですが、休憩を挟んでなんとか夕方には帰宅と相成りました。

散々の帰宅行の一部始終です。疲れました。は~。(*´Д`)

2025年8月10日日曜日

宮崎最終日から地獄の始まり

最終日ではありましたが、親父を連れて少し遠い一ツ葉海岸の方のレストランで昼食を摂りました。

これは予想外に非常に美味くて、家族経営をされていると思われるお店のご主人に食後改めてお礼を申し上げて辞しましたが、わざわざ厨房から出てきてくださってお見送りしてくださいました田舎でも美味いところは美味いんだとシンプルに理解できる味でした。

その後で東京に飛ぶ娘を見送りに宮崎ブーゲンビリア空港へ向かいました。スムーズな移動ではあったのですが、コレから一旦実家に戻って親父を家でドロップ。

我々3人も一度トイレで用を足して移動開始ですが、帰り際に親父が涙声だったのがやはりなんだかナ、、、って感じました。87にもなると実際の話次がいつか、そしてソレが本当にあるのかということが正直次第に怪しくなってきます。そういう意味では親父の涙声も良くわかるし、なんか悲しかったです。

その後高速に乗って熊本を北上して行ったところ福岡に近づくに連れて大雨がどんどん降り始めました。

最初は激しいな〜くらいだったのですが、そのうちワイパーが役に立たないほどの強さに。天気予報のサイトで調べると、福岡全体を覆うような巨大な2列の線状降水帯が発生しているのがわかりました。

直ぐに高速道路の閉鎖が始まりアッという間に下道に移動させられてノロノロ運転開始です。あちらに行ってもこちらに行ってもどこも閉塞状態でにっちもさっちも行きません。

やがて関門海峡橋が閉鎖されてそもそも九州から出られない?という事態かと思ったんですが、最後の希望として関門トンネルが残されました。

ところが、ここからが地獄の始まりでした。涙の続きはまた明日。TT

2025年8月9日土曜日

生まれて初めて出席する同窓会という行事

本来、今回田舎に戻ってきたのは高校の同窓会に出席せんか?と親しい友人に誘われたからなんですが、合同同窓会など出た試しがありません。聞いたところ私は八期生とのこと。卒業生は昨年で既に四十九期生にまで到達しており、総数は2万1千人以上とのことでした。そうすると、当然自分達も含めた一桁台の卒業生の先輩方の中には既に退職後の方々も増え始めているわけなんですが、それでも多くはまだまだ社会を支える中核層のまま。

会場は宮崎駅の裏にある比較的新しいホテルだったのですが、まずは総会が行われ規約の細かい改正や資金の承認などの手続きが進みました。

終わるといよいよ会場を移してのパーティでしたが、8期、18期、28期、38期、48期を中心に集められており、今年還暦になる我々は特に多く集まっていました。4テーブルでほぼ50人はいたでしょうか?

還暦にもなると一体あなたは誰?という人もいればちょっと太っただけみたいな人もいて老化の進行度は人様々。白髪とハゲと顔に深く刻まれた皺で何が何だかというレベルの変化を遂げた人物達もチラホラでしたが、多くはまだ原形を留めておりました。w

但し、女性陣に関して言えば20人くらいいた中で顔がわかったのはたった1人という状況で、化粧の有無というのも理由にはあるのでしょうが基本的に見なければ良かったという感じ。しかしよく考え無くてもその逆もまた真なりでしょう。残念ながら加齢とはそういうもの。

全てが終わった時点で主なメンバーとはラインを交換し再会を約しました。

その後は昨日のメンバーでもう一度バカ話を魚料理の店で開きました。実はどこの誰が誰と付き合っていて、誰と誰が深い仲だったとか、ウブな私が知らないことばかり飛び出てきて昨日以上に驚くばかり

その上私の職業を知っている彼らは自分の健康相談を開始してきました。まあ、職業柄いつものことなので全ての彼等の疑問に答えておきました。

店が閉まるとのことで今晩は散会となりました。飲んでいない下戸の友人が家まで送ってくれて本当に助かりました

会うと直ぐにその時の年齢に戻れる友人達がいると言うのは素晴らしいことだと改めて感じた次第でした。

2025年8月8日金曜日

バカ盛り上がり

今日は昨日の疲れもすっかり取れました。

息子も昨日の調子の悪い状態からは戻って来て劇的に元気な様子。発作が起きる時というのは基本的に疲労が蓄積していたり、一日の中でリズムが狂ってしまったような時に出て来やすい状況です。

さて、今日も朝起きてから家の掃除や改変の為にせんといかん事を淡々とやる為にナフコ(九州では誰でも知ってると思われるDIY等の資材ショップ)へ行って、ペールや電源コネクタや手袋などを買い揃えた後家へ再度戻って作業を行いました。取り敢えずそれらの作業が終わるころには結構なゴミ袋の山が再度積み上げられていたのですが、前回、前々回に比べればはるかに小規模。やはりこれまでの必死の努力が実っております。w

この後は夕方過ぎに約束していた高校時代の友人達との再会の為に宮崎の中心街である西橘通の方へとアクセスする事になりました。今人生最後の御奉公という事である大企業での最後の派遣仕事を大分で終えようとしている友人Yとは6年ぶり、JAで難しい仕事を任されている友人Hとは42年ぶりの再会でした。

久しぶりの宮崎市の中心街でしたが、長崎の中心街よりはまだまだ生き生きしている感じなんですが、それでも私が高校の頃まで知っていた宮崎市とは全く違う場所という感じ。時の移ろいというものを感じざるを得ません。

それでも久しぶりに再会した友人達は高校の頃とあまり変わらない顔立ちで、直ぐにソレと判りました。話をしているとあの友人この友人達の高校卒業後の消息が良く見えてきたのですが、既に亡くなってしまった友人達と云うのもチラホラ居りまして、やはり還暦前後の人間の友人というのはそれほどまでに全員が生きているというような歳でもないのでした。

その後は更に別の店で飲んで待っていたY君の友人二人が合流し、更に馬鹿話に花が咲きました。アノ子と誰が実はできていたとか、この子は実はこんなキャラで、お前が知っている清純さとかは実は欠片も無かったとか意外な話が続出。

真面目な生活を送っていた高校生では知り得ないようなお話が次々に登場し私の耳を愉しませてくれました。

12時前ではありましたが、明日の合同同窓会に向けて一旦散会。私はタクシーを拾って宮﨑の親父の自宅までも戻りました。2770円でしたが、お金を使う意味のある愉しい再会でした。

2025年8月7日木曜日

これはキツイ!

 結局名古屋の家を出たのは夜中の12:30で、高速を西に移動する中で1050キロほどの道のりとなりました。

途上4回ほど休憩を入れたのでトータルでかかった時間は13時間半ほど。そもそも眠ければ仮眠を20分ほどとって駐車スペースで車の中でお休み。それでも今回は出発前に2時間ほどしか眠れなかったこともありかなりきついドライブでした。

理由のもう一つは南下時に北九州からの枝分かれが熊本を南下する道では無く、大分側を走らされた事。ナビが未知の先の方で事故が起きてることを理由に経路変更として大分側を走らせたのですが、あの道は高速道では無く自動車専用道路!高速と勝手に呼ぶのは良いのですが、あんな片道一車線の道路を高速と呼んではいけません。

更には途中殆どSAと呼べる場所が無い事もダメだしの追加要因でした。それでも別府湾の眺望が見える「筈」の場所で停まってお土産を買ったり食べ物を口に入れたりしたのですが、余りにも曇りすぎていて何も見えない状況。

そもそもが、大阪を過ぎて以降の断続的に降っていた物凄い大雨が私を疲れさせました。何時もはこんなには疲れないのに今期はキツイと正直に言えるレベル。その所為でしょうか、助手席に座っていた息子も早い段階から眠らせていたつもりでしたが、大分の高速道上で1年3か月ぶりにてんかん発作を発症。「やっぱりリズムを崩すと覿面やな」と嫁さんと話す状況でした。

宮崎について荷物を降ろした後は疲れてしまって先ず息子とside by sideでひと眠り。

実は本日長男の誕生日でもありましたので、夕食に近所に彼の好物の焼き肉を食べに行って美味しく食べて、ケーキも買ってきて家で食べたのですがやはり息子は本調子とは程遠く冴えない顔をしていました。

取り敢えずは即風呂に入って寝せて今日の一日をあわただしく終えました。

それにしても凄いのはディーゼルエンジン。大人四人と荷物満載状態で名古屋から1050キロ走って使った燃料はゲージの7割。ガソリン車は勝てません。

2025年8月6日水曜日

今週水曜の夜から宮崎に帰ることに

 実は今度の週末に高校の合同同窓会というのに行ってきます。

その為に宮崎に車で戻る事に。何で車?って感じですが大量に荷物が積めて家族4人が乗れて、現地でもレンタカーなんて使わなくて済むし、ディーゼル・エンジンなので宮﨑程度であれば全くの無給油で到着できるうえに現地での数日分の移動であれば何の問題も無くガソリン継ぎ足さずに行動できるほど燃費が良いからです。

取り敢えず、今回の同窓会は我々卒業8期生が参加すると、学校のモットーが書かれた扇子を貰えるんだそうですが、そもそもこの手の会合に全く参加しない系の人間である私が参加する事になったかと云うと高校大学で共通の友人であった同級生が「今度の同窓会行こうぜ!」と誘ってくれたから。

そうでなければそもそも同窓会が行われてる事自体を知りもしませんでした。

何というか、地元を離れて仕事をしている人間ばかりが多い高校でしたので、地元で集まる機会もそもそも少なく、通知の大本となる私の住所自体も高校側には教えていませんでしたので、こういう事になる訳です。w

大体において30代、40代の頃は仕事や家族の事で忙しくて同窓会なんぞに出る余裕も何もあったもんじゃ無し、そもそも日本に居ませんから疎遠になるのは致し方なしというところでしょう。

しかし、重要なのはそこでは無くて安全運転。毎回九州に帰る時には何がしかの移動リスクと疲労に遭遇しますから…。そこは要注意です。

安全運転安全運転、そして休憩を取りながらの移動に頑張って行きたいと思います。出発は今日の夜12時前後といたしました。

2025年8月5日火曜日

運転免許証更新

アメリカに住んでいる時に何度も何度も日本のゴールド免許が青になってしまっていました。

まあ、それも仕方ない事でして、国外に住んでいる方で長期滞在者であればアルアルの話なんですが、結局免許を適切な時期に切り替えることが出来なければ日本で幾らゴールドでもすぐに青に変化。

免許切り替えに関しては、理由さえあればある一定期間の猶予は十分に認められますし、アメリカなどの免許を持っていればそれを受験後にコンバートする事も出来ますが、それもまた面倒臭いですしね。

今回の書き換えは日本に帰国して二回目ですが、勿論というか幸いな事にゴールド。運転する事が恐怖というような非運転者のペーパー・ドライバーではありません。w

私の場合は愛知県の平針にある運転免許試験場ですが、前回は出来た直後で未だ駐車場もなく、オープン・スペースにパイプ椅子をずらっと並べた待合の場所でしたが、今回はビビりながら行ったにも拘わらず700台分の駐車スペースは伊達ではありませんでした。500円で一日中停められますが、今回は駐車直後に前払いし入場。

しかしながら予約時間の10:15~30までには一時間以上時間が余っていました。基本的にこの余裕を持っての行動は「もしかして駐車スペースが無かったら」という前提での行動でしたので、まあ仕方ない事。今回は持ってきた本を読みながら時間を潰しましたが、ラインが動き出してからはマシンに免許証を入れて、家で予約していたQRコードを更にマシンに読ませて髪が二枚出てきてそれを持ってお金を払いに行くとキャッシュと電子マネー等が使えるラインが出来ており、時代の移り変わりを感じました。

最後には視力検査をして写真を撮って教室の前で15分ほど待って授業開始。授業自体は30分でしたが、何時もこういう授業で流される事故の犠牲者の方々の御家族のお話や実際の事故の瞬間の映像は私を小心者に戻してくれます。

事故はいくら気をつけても、例え自分が起こさなくても向こうから来る事も普通。ゆめゆめ油断せず、明日からも慎重に運転しようと再び決意しました。

しっかし出来上がった免許証の写真の自分を見てガックリ。どっからどう見ても反社の構成員のようなオジサンがそこに映っておりました。orz

2025年8月4日月曜日

高校野球も様変わり

ニュースを視て驚きました。

そもそも私にとって殆ど興味を惹かせる事の無い高校野球ですが、それでもニュースで自分の田舎の学校が試合に出て来ると興味は盛り上がります。

我々が高校生だった頃と違って商業高校や水産高校、工業高校のイガグリ頭の若者達が大活躍というのは本当に目立たなくなった気がします。その後では宗教系の県外越境組の(まあ、最初に書いた学校群もそればっかりだったんですけど宗教系に比べれば…)皆様の台頭ですっかり高校野球なんてどうでもよくなっていました。

ところが最近は時代も大きく変わって来て、進学校の生徒達が甲子園に出て来るようになっているというではありませんか!正直ホンマかいという気持ちもあるのですが、それこそが本来の姿という気もします。

さて、話を戻して昨今の高校野球。この「暑い時代」に合わせて、開会式が夕方という話。更には試合時代を朝と夕に割り振って酷暑炎天下での試合自体をそもそも行わないようにするという方針。

やはり、時代に合わせた方法論の改変は重要だと思いますし、訳の分らない旧陸軍方式の根性論などは一切引き継ぐ必要は無い訳です。そこに必要なのは生理学に基づいた建設的なスポーツ科学。各々の選手寿命を長持ちさせ、選手各人の筋肉や骨格、腱、神経等の発達の段階にマッチした方法論を適用すべきだと思います。

例えそこで負けても結局長持ちした体をもって長い選手寿命をもってプロの世界でやっていけるような若者達が増えるのは良い事です。

天才といわれた選手達で甲子園までで終わった選手達の如何に多い事か!近視眼的な事などで新聞屋主催の選手権で終わる事無く、その次のステップに歩を進めて欲しいもんです。

2025年8月3日日曜日

これは焦げるな

ちょっと思い立って近くにあるアピタに「歩いて」行こうと思いました。

取りあえず時間は昼の一時だったんですが、正に読みが甘かったと家を出た直後に反省することになりました。水分に関しては多めに摂り入れて出発すると共に、頭にはきちんとメッシュのつば付きハットを被っての出発で「まあ何とかなるやろ」てな感じだったんですが…。

そもそも40度前後で体温より高い気温のこの状態で昼の日が照る最中に家から歩いて出る人間などほぼ居る筈も無く、広い歩道の上で歩いているのは私だけ。

木陰から出て大通りであるグリーン・ロードに出て歩き始めた途端「これはヤバいな」というレベルの、まさにジリジリと照り付ける強烈な日差しが真上から射してきました。首筋は勿論、剥き出しの両腕も顔も先ず日焼け止めを塗って来なかった事を瞬時に後悔。orz

今からでも家に戻ってクリーム塗って長袖に換えて買ったばかりのUVカット傘を持ってこようかと思いましたが、そこは生来の怠け者、そのちょっとが面倒くさくてそれをしません。そのまま歩いて行くとはるか先に小学生の女の子らしい二人がのろのろと歩いています。追い越しざまに話を聞くともなしに聞くと「あああ、暑い~」と言いながら歩いています。内心では「オジサンもそう思う!強く同意します~」と声なき声を出しておりました。

それから暫くしてアピタに到着したころにはもう汗だくだく。普通この程度の歩行では汗など書かない私もこの状況は流石にアカンという奴で、アピタでは用事も忘れてドンキで嫁さん用にキャラクター靴下を3足千円で購入したあと自動販売機でアクエリアスを購入して再度喉に流しこんで出発。

もうこうなったら体力勝負で焼け糞です。w

ヒーヒー言いながら誰も歩いていないギンギラギンの太陽が照り付ける中をとことこ歩いて行くこと更に20分。家に到着した時は新品の汗を未だ吸わない綿シャツの裏は大呂いうの汗がぺったりと張り着きナメクジの這い回った後のような地図になっていました。

何だか大失敗という短い散歩でしたが、次からは何をしないといけないかが分かったという意味では懲罰的教育散歩となりました。鏡を見ると顔と背中が赤く変化し、バイトから帰って来た嫁さんが「お父さん顔が赤いよ!w」といって客観的に被害の具合を評価してくれました。

やっぱこの夏の暑さは異様。7∸80代の人間は外出してはいけません!

2025年8月2日土曜日

人生エロエロ

部屋の隅に積み上げたままになっていた「積読本」の山。今日はなぜかある一冊に目が留まりました。タイトルの妙に惹かれて買ったはずなのに開いていなかったその本。みうらじゅんさんが書くそのエッセイのタイトルは「人生エロエロ」。しかし読み始めてすぐに降参しました。中身の面白いこと面白いこと!

やっぱり文章で飯を食う人間の文章というのは「こうでなくちゃね」と言わせるだけの起承転結があって、私のような書きっぱなしの読む価値のない雑文集ではありません。これは週刊文春に10年以上連載されているエッセイを途中で一旦まとめたものなんですが、幼少期から今に至るまでの自分の身の回りに起こってきた大小様々のエロにまつわるエピソードは、どれも我々世代なら「そうそう!」と思える“あるある”もの。よくぞ書いてくれました!という感じで描き出てくれている秀作です。

この人のこのエッセイで私が感心するのは我々の世代(彼は私より7歳年上)が経験した、そして思っていたことを本当に上手な「落ち」を最後につけて語ってくれること。

みうら氏の職業は一応イラストレータ、エッセイスト、ミュージシャン等などと書いてありますが、そもそも御本人が「一人電通」等と言っているくらいいろいろとやっている状態なので、絵・歌・文章とどれもがそれなりにイケてるのでしょう。私にとってみうらじゅんというのは昔からサングラスを掛けた正体不明の人物。時々テレビで見かけては独特のヘタウマ風イラスト描いている「何かをしているヒト」位に感覚だったんですが、少なくともエロに関する感覚はバッチリ私と波長が合っていて笑えました。

「人生いろいろ」というフレーズはもちろん小泉元総理の有名な発言ですが、我々周辺の世代であれば誰でも知っている訳で、ソレをもじっての人生エロエロはなかなかしっくりきます。

ネタを貯めてそれを熟成させ、起承転結を配置して最後に決まりの一言で文中のエピソードの伏線を回収するというのは言うは易しで実際にはそこらの普通の人間にはなかなかできないこと。軽妙洒脱に語りながらそのエロの情景が眼の前に広がります。まさに手腕ですよね。その手練れぶりには新鮮な驚きしかありません。

タイトルと中身はエロ関連の話ですが、ただのエロと笑いだけでなく、私たち世代の生き様や記憶が詰まっていて、それを文字に起こして伝える氏の手腕に心から拍手を送りたいと思います。

それに比べて己の文章ときたら…。文章を書くという作業には間違いなく慣れというものがあって、業務上の定型的な文章などは私は比較的得意なのですが、こういうブログのような自由な雑文というのは本当に日記レベルでしかなくて、成長の跡というものが見てとれませんね。残念ですが。orz

2025年8月1日金曜日

カムチャツカ沖の大地震を見て思った事

何時までも何時までもテレビの画面から消えない先日の津波警報。

数時間のレベルでは続くだろうなとは思っていましたが、ほぼ丸一日あのままだったのには驚かされました。余震やその他素人の我々では理解できないような複合的要因が沢山あってあのような事態になったと思うんですけど、各地で実際に沿岸に近い方々が沢山避難されたのは東北大震災の教訓があったからだと思います。

東北大震災の時には猛烈な寒さの中での被災で、津波や地震自体で生き残った方々で海上やその他の孤立した場所で凍死されたパターンも多数あったとの事。私が今回の地震で思ったのはその逆のパターン。強烈な地震が発生して広範囲で通電が止まった状態で多くの人達が避難生活を強いられたら恐らく熱中症で多くの高齢者や障がい者が避難所や自宅、病院等で死亡すると共に伝染病・食中毒が猛烈な勢いで拡大するのではないかという事。

被害想定というのは常に「最悪の状況」というのを想定して準備をしておくべきで、超大規模なレベルの震災が発生した時に、まず地震自体で直後に生き残ったとしても、火災や津波が襲うというのは既に想定内であって(かつ原子力発電所がきちんと停まってくれたとして)も、その後の物流、水道、電力等の寸断、下水道の配管破壊等が招く超長期の社会生活の破壊は本当に今の被害想定程度で何とかなるのだろうかと心の底から心配しています。

そもそも現在の状況では「犯罪者が跋扈しない」という日本人的善意に基づいた前提で全てが成立していますが、これって震災後の復旧が超長期化していく中で人心の乱れがどうなるのかというのも気になる所です。

政府が発表しているレベルでの死者が出たとしてその遺体の処置はどうするのかというところも謎。前回の大震災の時の様に一時的に大量にあちこちに一時的に埋葬する方法を採らざるを得なくなるのでしょうか。

ほんと、こういう事に関してはもっともっと各自治体のレベルで激しく啓蒙的な演習を半年に一回ほどは仕事を休ませる状態にしてでもやった方が絶対に良いと思うんですけど、しませんよね…。時々あちらでポツリ、こちらでポツリという感じの災害時演習はしてるというニュースが出ますがそれでは全く足りないと思います。

最悪の状況の想定。自分も含めてどれ程出来ているんでしょうか。