家からそれほど遠くないところで80歳の爺さんが運転する車が喫茶店に突っ込みました。
自己自体は所謂アクセルとブレーキの踏み間違いかギヤの入れ間違いということですが、恐らくは後者でかたいと思います。車止めを乗り越えてバックしていった挙げ句に喫茶店の中に居たこれまた80代の男性を怪我させたというものです。
話自体は日本全国で起きている話で、この前も直接看護師さん自身から聞いたのですが看護師さんもコイン・ランドリーに車で突っ込んで車と店を壊した話をしてくれましたので、ニュースにならないものも含めれば、恐らく毎日のように日本中で起きている話なのでしょう。そんな中で高齢者が加害者だったり、被害者が小さな子供さんだったりすると話は大きく報道されますが…。
最近は歩道を歩いていても「高齢者や病気で運転中に意識を喪失した人」がもしかすると突っ込んでくるかも知れないという大前提で常に構えています。交差点に立つ時はこっちから車がこう来てもここの車止めにぶつかれば俺は怪我せんなとか、この大きな電柱の影に立ってればココに車がやってきても大丈夫とか頭の中で軽いシミュレーションをしながら息子の手を引っ張って歩いたりしています。
歩行者として歩いている時は加害者にならないように気をつけているのは上に書いたとおりなんですけど、実際自分も還暦に近づき始めて「自分が加害者にならないように」という事が頭を過ることが多いです。工業院の90代のクソジジイが親子を轢き殺しておいて、恬として恥じなかった様子を見ているとああいう老醜を晒すような事だけは絶対に避けたいし、自分より若い命を車で奪いさるというような事もそれ以上に避けたいと思うのです。
こういうのは自分の恥云々を超えて、人の明るく長い未来の可能性を奪う所業ですからその加害者だけには絶対に…と考えつつも、万一運転中に意識を喪失するようなインシデントが発生したらと思うとそれはそれで恐ろしいことです。
今自分が日常的に乗っている車は取り敢えず危険が近づいている時にはアラートが普通に出て、危険を回避すべく自動で停まるものですがそれでも100%などとは「程遠いもの」です。残りの数%のリスクで十分に人を殺したり怪我させたりと言うことは起き得ますので、どこまでいっても運転というのは大きなリスクを背負っている行為だということで、最近はそういったリスク発生に対する疑念や不安が強くなっています。
何時の日か「これはあかん」と思うような前振りベントがあったら運転を止める・控えるなどという区切りがあれば良いのでしょうが(親父は自宅のカーポートにバックで車庫入れ中に車を当てて以来運転を止めました)、自分はどこかの年齢で区切ったほうが良いのかも知れないなと、このようなニュースを見る度に考えることが増えているこの頃です。
幸い名古屋市は敬老パスがかなり良い条件で使えますが、美しい区切りをつける「その日」があればよいのでしょうが。
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