先日、うんこドリルで漢字の勉強をしている次女の話を書きました。
しかし、今の時代どういう形で日本語の中にある漢字というのを捉えていけば良いのかと少し考えてしまうことがあります。例えば、いろいろな書類を作成するにしても殆どの書類にPC内で雛形が揃っていて、PDFやワードの書類を埋めていくだけ。
現場の仕事の上では斯くも手書きが行われる現場というのは減っています。病院によっては、特に大学病院などはもう既に四半世紀前からPCの前に座って仕事を続けるという状況が普通。本当に文字の跳ねや払いを考えながら文字を長々と書き連ねるなどという作業が殆ど絶無になってしまいました。
患者さんに関する情報を書き出す為に役所から書き込みを依頼される公的書類の全ては電子的雛形に収められて処理されますし、他の病院に患者さんの紹介をする時の診療情報提供書も全て電子的な書き込みをプリントする形で封筒に入れて提供されます。
こういう風に見ていくと日常は余り手書きをする機会が無くなってきている事が良く実感できます。それでも!それでもなんですが、手書きで美しい字や魅力的な字を書ける人を見ると強い敗北感を感じます。私自身は己の字を見るだけで頭痛がするレベルの悪字悪筆ですので、書きつける字は本当に酷いものです。
それでも、字を書いていて思うのはその字の跳ねや払いがどうだったのかという細かい部分を随分忘れている、というかそもそも最初からハッキリしていないというのが本当のところで、手書きをしながら時々辞書を引いてはその細かい部分を再度ハッキリさせるというのが普通の人の手書き生活だと思っています。
こういう時代に手書きの美しさを持つ人はますます際立って目立つ時代になってきているような気もします。ハッとするような美しい大人の字を書き連ねる女性を見ていると、その女性の中身まで素敵な人だと思えてくるようなハロー(後光)効果が出てきますしね。^^
アメリカに居た頃は「変換」と言うステップがない分、本当に日本語以上にタイピングと英語は親和性が高いので、英語圏で生活するというのは本当に手書きとは縁のない世界でしたけど…。日本語は漢字やかなやカタカナが混ざって日常を構成するという点でハードルが高い分、読み書きの能力がある程度その人の一生の職業レベルを決める傾向があります。(まあ、英語もreadingとwritingの能力はあらゆる分野でその人の仕事のクオリティを決める傾向がありますけどね。)
アメリカに居た頃からそもそも日本語を書くことが減ってきていて、日本に帰って来たら来たで今度はPCでバリバリ記述する日常。読めればオッケー、平仮名打って変換が正しくできればオッケーというのも「理屈としてはあり」なんでしょうが、最近のネットの売文屋さん方の酷い誤変換やセンテンスを読んだり、若いアナウンサーが呆れるような誤読をしているのを見ると、書けないと言うのは結局PCの上でタイプが出来たとしても、高精度な文章を構成出来ないということなんかな?という気がしています。
そういう意味ではChatGPTがいくら進化しても、文章を正しく読み込んで理解した上で、自分の表現したい文章を自分の能力のみで瞬時に表現できる能力(手書きだろうとタイピングだろうと)は益々重宝されるのではないかとぼんやり思うのでした。
それにしても~~~次女には中学レベルまでの日本の漢字はほぼ全て読み書きできるようになって貰いたいものです。
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