LGBTQと言う言葉が日本でも普通に聞かれるようになってきました。
地方議員に限らず、この性の認識に関するトンデモ発言を行って顰蹙を買っている連中がまだまだ中央の議員連中の中に居ますが、私自身はその手の連中というのは日本の中ではやがて昭和臭のする連中が消えていく中で今の喫煙者が減少していくように「減っては行くけど無くならない」というところで逆の意味でのマイノリティとして落ち着くのではないかと思っています。
自分と違うもの、自分の理解できないものを恐れるという人間のある側面の延長上の存在としてのhomophobiaの感覚というのは、人種や性別、宗教その他で人間の業のように手を変え品を変え登場してきますが、自分と異なるものを受容していくというのは人としては成熟の過程の延長上に存在すると私自身は考えているんですが、親の代から或る教えを受けている人が、その地域に住み続け他の考えに触れるチャンスがない環境である程度の歳まで過ごしてしまったら、なかなかそれを変えるのは困難かなとも思います。
特にその「考え方」がその人自身の小さい頃からの行動や判断の基本原理に沿ったものだとそれをモディファイする事自身が本当に破壊的な変化などで、多くの人がそれに耐えられないのではないかと思います。自然科学的なロジックで考えると「いや、それはちょっと…」というような記述も各種の宗教などでは事実としてそれぞれの宗教の信者達には受容されているわけですから、それを変えることの困難さはま、花崗岩に水滴を落として岩を割るような難しさです。
特に、それらの宗教の経典にそれらの性に対する禁忌の記述などが有るものなどはまさにLGBTQなどは目の敵にされがちで、命まで狙われる日常がイスラム圏を中心に普遍的なことは誰もが知ることです。程度の差こそあれキリスト教でも原理主義者、共産主義諸国を中心にGayへの激しいアタックなどはアメリカでもヨーロッパでも変わりませんけどね。
私自身はその点、日本では昔からこの同性愛に関して、更に言えば性に対して最もおおらかな国の一つだという認識を持っているんですが、変にアメリカ風のLGBTQ等への議論の中で、対立を煽るかのような「認める認めない」的な二元論的なものに陥っているような気もします。
もう一つ気になるのは発言しているLGBTQのグループと、その様な議論の中に全く関与していない静かな、もしくは公言さえしていないLGBTQの(恐らくは巨大な)集団の間には何か乖離があるような気がしないでもないんですけど?
そもそも日本は歴史的「衆道」先進国。敢えて西欧諸国のように二元論的な議論を喚起しなくとも、比較的自然にこの様な性の多様性に対応できる素質を持っていると思うんですが?
誰が誰を愛そうと、その性別や性的指向がどうだろうと、法的に夫婦を形成するなら、もしくは子育てを指向するペアなら極普通に法的な網で補助や認定をしてやればいいと考えます。トイレの問題なんかは未だ先でも結構。先ず解決させるべきは法的権利による扶助ではないでしょうか?
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