先日長崎に帰った折に嫁さんの部屋で一葉の古い写真を見つけました。
40年ほど前の義母の写真でした。まあ、正直言って親族のLINEにネタとして載せて皆の微笑を誘うという企画でしたが、目的自体は果たしたもののちょっと考えたことがありました。
それは、当時はその髪型と服が街に出ても全く普通だったという事実。今見ると・・・というような格好なんですが、このフツーというのが曲者。有る一時期には常識であって、そう考えることが当然であって、そう考えるのが普通の人と考えられたことであっても、時代の変遷とともに技術や研究の進歩でそれが誤りである等というようなものは実にこれまたいつもの事。
こういった話は科学全般は勿論、その一部である医学においても十年、二十年単位でガラリと変わることも極めて普通です。
例を上げだすとキリもないし、卑近な例として私自身の医学部で習った”当時の事実”と言われたことも、今となってはオイオ〜イ!レベルの話になってしまった事も枚挙に暇がありません。
これが百年前になってしまうと、もう訳もわからないくらいありとあらゆる常識が”変わって”しまう事になります。
もし、100年前に目の前の人の動きが音と画像で瞬時に世界の裏側の人に伝わってそれを皆が見ることが出来るとか、誰もがあっという間に手もとの小さな機械で世界中の情報にアクセスできるのが日常で〜なんて言ったら、多くの人から失笑を買うか病院に送られる家といった事態になったことでしょう。
しかし今はそれが日常。その時代の多くの人にとってのフツー等というのは実に皮相なもので、想像の範囲の内側にあるものと言うよりは目の前にある日常の平均値でしか無いということでしょう。
そう考えると、人の目など気にせずに己の考えた方法論をもとにやりたいことをやって生きていくというのは勇気は要るものの、正しく普遍的な方法論なのではないかと考えたのでした。
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