クルド人同士で殺し合ったり、暴力沙汰を起こしたり、騙し合ったりなんて言う事も頻発しているとは言いますが、それよりも何よりも移民一世というのは現地の社会にはなかなか溶け込ま(め)ないのはどこの国のどの時代でも同じ事が起き続けています。
アメリカでも、ヨーロッパでも、南米でも「時代や場所」を超えて必ず起こる問題。
そもそも、人間は自分と姿形の異なるものにそもそも違和感というものを持っています。それは恐らく原始のころから自分と異なる形や色をしたものをひとまず危険な相手と認識して啓明氏自分の命や集団を守るための本能だと思うんですよね。
その後で、経験を積むことでそれが危険か否かを認識して生活圏を共にできるか否かを学んでいくというアフリカの草原で水場に集まる動物達が日々繰り広げている生存競争と全く同じものだと思います。
その上人間には外見のみでなく言語と思想と生活様式という非常に厄介な違いまで存在しますから、この違いを乗り越えるのは形や色の差を乗り越えるのよりも遥かに困難。言語を乗り越えても思想とそれに付随する宗教や民族独特の発想法などはこれまた克服するのが困難な差異です。
一日五回、お祈りをするアノ「一神教」の人達は基本的に八百万の神が精神的な根っこにあったりする日本人とはやはり異なもの。モノの一つ一つにそれぞれの神宿り、其々に感謝を込めるという行為は、全ての感謝の源は一人の神からという思考様式とはやはりかなり異質でしょう。
そんな人達を日本に取り込んでいくというのは姿形そっくりかつ日本語も日本人と同様に話すの在日韓国人達にさえ往生している日本人が未だに多いのに果たして出来るものかと問えば答えは恐らくかなり明白。
ヨーロッパやアメリカの苦闘と、現在進んでいる移民受け入れの中で起こっている様々な事件や軋轢はそういったこれからの日本の「近」未来の投影図なのでしょうが、来る人は慎重に選ぶ事と、彼らにきちんとした日本の教育を施していく事を怠るとどうなるか?老いた後の私が今はまだ生まれても居ないような未来の在日外国人の子供にぶん殴られないとはだれが保証できましょうや?
別にフォビアでも何でもなくて、差異は乗り越えなければならないものですが、そこに至る摩擦係数を下げるのは入国時の教育レベルによる選別。必ず教育レベルの高い人間を入れるというのが先ずは必須の条件でしょうが、これが上手くいっていないのは世界のどこでも見れば一目瞭然。そもそもそんな人達が「観光では無く移住する為に」来るような魅力的な国家か?そして言葉の壁は?と考えると…。
本当に難しい時代になりました。
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