2024年2月11日日曜日

言葉と心

数年前にルッキズムとかいう言葉に初めて遭遇して「何よそれ?」と思う事がありましたが、今はもう何の驚きもありません。

アレを言っちゃダメ、コレを言っちゃダメと使用NGの言葉が毎年減っていく一方で、世の中にはとんでもなく陰惨な虐待死事件や障碍者に対する虐待、殺人等が次々と表沙汰になっては多くの人の心を暗闇に落とし続けています。

悪口・NGワードと言えば、アメリカに居る時に中国人の友人と話していた事を思い出したのですが、中国人の間では猛烈に汚い罵り合いの単語がゴマンとあるという話になりました。そういう点では日本語も英語もそういう言葉は沢山ある筈だけどとは思いつつも、実際にそういうことを調べてみた所「日常のレベル」で使うのに中国人は猛烈に豊富な罵詈雑言を用いて実際には手が出ないようなブレーキを掛けているんだとかいないとか。真偽の程は判りませんが、まあ、あれだけの人口であれだけの民族が入り混じっていろいろな地方に分かれて生活していれば、ある人には日常的に使う悪口でも、一方の人には生まれて初めて聞く単語且つ何の事を言っているのか全く理解できない悪口も「人口の数の分」だけ多くとも全く不思議ではありませんけどね。

また、アメリカでもpolitical correctnessという錦の御旗の下に色んなことが言われていましたが、むしろそれを超えて今はテレビの言葉狩りの自主規制の下で日本も凄い事になってきたなと感じる事も度々です。

political correctness(PC)に関してはアメリカに居た頃も、それを嫌っている人達の一群が居るのはごく普通で、教授会なんかでさえも男性だけが集まった時のトイレでの連れション時などでの一部の会話なんかは「それはそれは…」でした。それでも、そういった所でさえ人種や宗教、障害等に関するものなどは一切当然の様に出て来ませんでしたが、教養のレベルが下がったところでの日常会話はNIH等の休憩時間などで聞こえてくるメンテナンスの職員の会話などで十分に経験しましたので、酷い話をする奴らも居るもんだとは感じてはいましたが。^^

とは言え、私の根っこにあるこの言葉狩りへの嫌悪感というのは「その国の言語を細らせる」という事に対するものだけでなく、基本的には美辞麗句を使っていても最初に書いたような心の中は却って糞のようなおぞましい連中が沢山増える事への強い危惧です。

私は今まで脳性小児麻痺で体の不自由な弟を小さいころから見ている事だけでなく、息子に自閉症スペクトラムがある事もそれが無ければ良かったなと思ってはいても、同じような事が他の人にあろうともそれが自分にとっては差別の対象などには「全く」ならないというのは当たり前で、例えば単に指が6本あるからどうした?顔の出来が良いから、不細工だからってどうした?毛が赤いから黒いからどうした?と云う程度のその人に備わった個性としか思っていません。「違い」自体に良いも悪いも無いですから。

そんな事から、息子なんかに対してもやたらと可哀想とか言われたり思われたりするのは寧ろ「知らないモノ、違うモノに対して普通に接するって難しいもんやね」と改めて親として思うんです。長女とかはそういうのを嫌うんですが、普段からこれが普通と思っている範囲が狭い人に慣れないものを相対させるのは難しいものなのだという事を理解して欲しいなと考えないわけでは有りませんが、やがて彼女にも解る日が来る事でしょう。

だからと言って障害のある人間に心無い言葉を敢えて投げつけてくるような連中には「お前らときたら…」という感想を恐らくは持つのですが、そんな連中にそもそも関係を持つこと自体が日常では無いので、感想を持つ機会さえありませんけどね。

言葉狩りという単語を使いましたが、基本的にどんな言葉を使おうと使った人間の心が腐っていれば口から出てくる「奇麗な言葉」には何の美しさも無いタダの虚ろな音声だと思っています。まあ、政治家の公約と同じレベルの意味の無さですわな。w

口から出てくる言葉が粗野であろうとも、行動が野卑ならぬ温かいものであれば私は寧ろその人の事を逆に信じるタイプの人間です。

そして障害というのは明日の自分。障害を持つ者を嘲る未来の見えぬ人間に私が向ける眼差しはヤレヤレです。

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