またやって参りました、終戦記念日。
公式には「戦没者を追悼し平和を祈念する日」と呼ぶのだそうですが、今年で既に77年目。残念ながら、当然の事のように世界中で大小の紛争、戦争が続いています。勿論、ロシアによるウクライナ侵略も。
最近、テレビで90過ぎの男性で終戦後に戦災孤児として辛酸を嘗める経験をされた方が涙をポロポロ流しながらその当時の話をされていましたが、自分自身もたまたま「駅の子」のたたかいという、駅やその他のエリアで生き抜いた戦災孤児達に関する新書を読んでその言葉にできないレベルの悲惨さに打ちのめされたばかりでしたので、心に迫るものがありました。
結局のところ大人が始めた戦争で最大の犠牲を被るのは常に何の罪もない子供達。それは時代や洋の東西を問いません。上に書いたような話は今現在もウクライナで日々生み出されているわけです。勿論、攻め込んだ側のロシア人達の家族にも同じ事は起きているわけで、片親である父親が亡くなった後に母親が(居れば)シングルマザーの家庭になるであろうし、母親がいなかったり、万一の事があれば直ぐに両親が居なくなると言う事態に至るわけです。
日本でも大量の戦災孤児が発生したわけですが、政府が彼らにしたことといえば「刈り込み」と呼ばれるそういった子供達の強制的な確保と反古の名の下に一律に行われた画一的な処置。
当然、彼らには何の罪も無いのですが、過酷な運命に振り回されてその後の彼らには更に大きな過酷な人生が待っていた事が多かったのです。
奪われた彼らの父親を靖国神社に祀るのは大いに結構。実際に国家の命令で有無を言わさず死地に赴く戦いを強いられた彼らの魂を弔うのは国家の行事として大変重要であることは論を俟ちません。しかしながら、それ以上に重要なのは国家が当時の戦災孤児と言われた子供達に継続的な支援をきちんとしてあげることだったのではないでしょうか。参拝云々などというのは正直「為政」の上での重要度という意味においては下の下の問題であって、被害者の救済がどうであったかという歴史的事実に対して政府はもっと真摯にその歴史を語り継ぐ必要性があると思うのですが。
戦後の悲惨な状況下で生き延びることが出来た(運の良かった?)子供達も、生きながらえず餓死したり凍死・病死していった子供達も結局は愚かな大人達が作り出した犠牲者に違いはありません。
愚かな戦いの後には必ず巨大な余波が残されます。その余波は「誰も」得することのない余波。名目上勝とうが負けようが、誰にも、特に弱い立場の者達には良いことはありません。そういった意味で、我々大人は為政者の選択において軽々しく「戦い」を鼓舞するようなバカを選ぶ愚を犯してはならないと改めて思います。それは隣国の為政者選びにおいてもそうであって欲しいものではありますが…。こればかりは。
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