2020年6月17日水曜日

苦しかったら何でも薬か?という事に関してはいろいろな意見があっても良い

内科的な病気を治すには、内服薬があったり注射薬があったりしますしリハビリなどによる機能回復訓練などもそういった治療に入ってきます。外科的なアプローチも各種の病気を治療するために高度な方法論が脈々と受け継がれ、道具や薬との組み合わせで高度な改良が続けられています。

それでも、神経の病気などは他の内科的疾患と違って「ついこの前までは」診断の難しさは勿論、治療に関しても分子生物学的なアイディアは沢山あるもののまだまだ私の学生の頃と大差ないほど遅々として治療法に改善は見られませんでした。(少なくとも一般内科医の私からするとそう思えました。神経内科専門の先生、間違ってたらごめんなさい!)

更に精神と心の病気はどうかと言うところまで思いを致すとどうでしょう?
太古の昔からいわゆる統合失調症というのは分子疾患として存在していたし、抑うつ、躁、その他諸々の幅広い「普通と異常の間を漂う」精神疾患と呼ばれるものが今も昔も変わらずあります。

では、こういった心の病気は薬の進歩と歩調を合わせるように治療が進んできたのだろうかと言うと、これはとても心許ないと思います。精神科医の診断力が周りの電子装置や分子生物学と並行して進化した内科一般と同様に進歩したとはなかなか言い難い気がします。

それは一にも二にも精神に関連した「問題」というものが他の病気のように数値化、定量化することが極めて難しいからだと私は考えています。通常、病気というのは正しい診断があって初めて正しい治療の選択肢を選んで治療していくもの。ところが精神疾患というのは本当にそれが難しい。学派による解釈と治療法の違い、そもそもその疾患を診断するドクターの知性や心、経験のレベルも個人間で大きく大きく異なり、言っては悪いのですが「あんた自身が患者じゃろ?」という先生も少なからず。

結局、精神科における診断と治療の間には内科における正しい診断と適切(最適とは言わないまでも)な治療の間の「比較的」タイトな対応関係とは違って、どっと拡がりを見せ多対多対応的な状況になっているような状況だと思っています。一つの「日常の社会活動において通常の生活に支障をきたすようなおかしな精神状態」を治療するとは言っても、診断・治療・最終的な社会復帰までの幅が本当に広い。

まとまりの悪い、と言うか歯切れが悪くならざるを得ない文章なのですが、精神科に助けを求めてくることに関しては、全くの私見ですがまず自分自身でいろいろと考えを巡らす過程というのが「本当は」まず十分な長さあったほうが良いと思っています。

高さに対する恐怖を克服するためにゲーテは己を教会の尖塔に縛ったとか言う話もありますし、恋に破れ悩みに沈み戦いに敗れた後に、文学や自己発見、心理への探究心の勃興、宗教、哲学的思考の深化等が普通にあったのが精神科無き時代の「普通」であったと思うんですが、今ではそこに至るまでに抗不安薬、抗うつ剤を使う人が普通に・・・。

「悩む過程」それ自体を自己啓発の起爆剤としていた時代は既に遠くに去ってしまったのでしょうか。苦しさから薬で開放されて明るい今の私。悩みは遠くに去りました!というのが文学や哲学を形成するとは思えないんです。

こういう事書くと、うつ病で悩む私の苦しみをお前なんかが!とすぐに言われそうで嫌なんであんまり書きたくはなかったんですが、まあ、私の雑文日記ですので間違っても「お前という輩はケシカラン!」と文句を送ってこないでくださいね。mOm


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