中年になっても仕事は減るどころかむしろ濃い仕事が増えてきます。
責任は大きくなって、若い頃のようになにか間違いをしても上の人が責任を取ってくれるようなレベルで話が済むことはなく、自分自身がその仕事のもっとも大本の責任者であるようなことは次第に普通になってきます。
私自身がいつも考えるのは、中学生までは「がんばった!」という事は大切なことで、失敗しても失敗自体を次への糧としてまだまだ沢山やり直す機会があると思っています。ところが実際にはそこから後は次第に「頑張る」というのは肉体のレベルでも思考のレベルでもそうする事は当然で、その上にどう頑張ったかを工夫した上で「結果」を出さないと現実の世界では競争に出遅れていきます。(実際のところ私自身がその手の競争で先を走った経験自体無いので、言う事自体が烏滸(おこ)がましくはあるのですが。)
しかし、そこをオブラートに包み現実を見ないようにするのであれば、ある時期までは幾らでも人生甘口で行くことは出来るのですが、実際には時間が経つほど現実を隠し包み込むオブラートの厚みと甘さに応じて「辛口」の度合いが進んでいくだけ。
最後にはその辛味を包み込むオブラートさえ存在しなくなって(多くの場合は生きている親の存在でしょうが・・・)激辛のスープの中に身を沈めて一巻の終わり、となるような人生が待っているわけです。勿論、どんな状況からも立ち直る人はいるのでしょうが、そういう人は立志伝には”稀に”出てきても、残りの多くの場合は後悔と愚痴と言い訳で傷を癒やすか舐めるかしか無い訳で。
特に無理の利く、そしてまだまだやり直しの時間と選択肢がたくさん残されている「若い頃」に頑張ることが出来なかった人はいかなる形であれ、多くの場合、その残りの人生をそのツケを甘受する形で過ごすことになりがちです。何度も同じことを言いますが、そういう事に関していい年こいて未だ現実を直視することの出来ない人がどんな場所にでも居て、惨めさを際立たせているだけなのです。可哀想なので言及はしませんが・・・。
ですから、私は子供達が小さい頃に易りやすい形で言いました。「嫌なら頑張らんでも良いけど、人生そのツケは自分で払うようになってるからね」と。
子供に対して人生において迫りくる(やがて誰にもやってくる)現実を直視させる勇気を持たなかった親子には厳しくて長い「その後」があると私は思います。勿論、人生には運の要素も絶大ですから一生懸命やっても上手くいかないことなんてごく普通ですけど、工夫して頑張らなかったときより「遥かに」マシな結果とその後への応用・学習が待っていると思います。
という訳で、凡人なりに日々工夫を重ねながら勉強することを忘れないようにしましょうというシンプルなお話でした。(娘達にとっては、私がこの先ぽっくり死んだ後でもこの文章が残っていれば、愚かな親父なりにこんな事を考えていたという記録にはなるでしょうから書いてみただけでした。)
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