2021年11月26日金曜日

人の死は日常の延長上の出来事

病院に勤めていると人の死は日常です。

ところが、私が病院勤めをしていなかった間の20数年の間に出会った「死」はたったの一回。アメリカの大学で、ある部門の女性秘書さんがお亡くなりになった時のみで、その時には一度だけアメリカ式のお葬式に参加させて頂き、亡くなられて棺に収められた彼女の姿を見させていただきました。

医者の私でさえ、医者としての日常を過ごしていない時には、それほど人の死と関わることはない状況。ましてや今の時代は人の死は多くの場合日常を過ごす「家」には存在せず、そこに住む子ども達にとって生老病死のうち老病死という人生における下り坂の局面を見せる機会自体も老親との同居生活ということが消失してきている現代においてはやはり無くなってきていても不思議はどこにもありません。

ですから、今になって死んだ人というのを見たことがない子供達は今の時代ごく普通にいても特に我々は驚かないわけです。しかし、この「死が日常から遠ざかる」という現象が当たり前になってはや数十年。昭和の頃には葬式に出てお爺ちゃんの横たえられた死体の脇に行って親に促され「最後のお別れ」を心の中で行い、涙の中にも生きていた頃の笑い話や思い出深い話をして時を過ごし、最後に火葬場に皆で向かってお焼きをし、骨を拾って骨壷に収めるまでが一連の儀式になっていた訳ですが、こんな事も本当に最近は少ない気がします。要するに氏が日常の中にはない時代になりました。

基本的にみんなが「人の死」を自分の人生から遠ざけたところでその瞬間は誰にも平等に訪れます。しかし今の時代に問題になってきているのはそれを考えない、見えないもの、無いものとして「受け止めない」ようになっている人が増えているのではないかという事。

そもそもが人の死は生の終着点。生まれれば死ぬのです。死は自然な現象。私自身も「あ~あ」と思うような肉体や精神の変化(劣化)を日々感じながら、いつの日にかどういう形かは別として現世にさようならをして家族と別れる日が来る事を時に考えるわけです。それでもそこには家族や友人が持ってくれているダメ人間としての記憶が無くならない限りはマダ生きているわけですが、それを記憶として持ってくれている家族や友人達も同様に消えた時に初めて本格的にこの世から居なくなったことになるのだと思っています。

人が生まれて土に還るまでの一連の流れをもっと普通のものとして受け止めてあげる社会を再度日本に戻しても良いのではないかと考える「多死社会」の現代令和日本の病院で働く最近の私です。


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