2019年4月5日金曜日

死の形を選ぶ大切さ

85歳、90歳となった時にどう言った死生観を持っているか。

前にも少し書いたと思うのですが、私は両親と話し合って”回復という未来がないような状態”では一切の延命治療は拒否するというのを毎年会う度に双方向で確認しあっています。
双方向というのはつまり、両親の最後だけでなく、万一私の身に何かが起きてそういう状態になった時は同じように私の方の延命治療を断わって欲しいという事。

いま、病院ではびっくりするほどの高齢患者さん達が入院してきます。
80の後半何ていうのはごく普通で、90半ばから100近くの方が結構ゾロゾロと入院してきてオペ後のメンテや癌のターミナル・ケアなどもその年齢層の方々に普通に行われます。

身寄りの無い方であれば、通常は御本人にその意思表示能力がなければDNAR(do not attempt resuscitation)という方法が選択され、本人に御意志を確認できる場合でもまず殆どの方々が「もう良い、十分生きたわ、ハヨ逝きたい。」等と言う感じの意思表示をされます。

しかし、御家族の居られる方の場合それが複雑な道程を辿ることも・・・。
明らかにもう本人の意思表示能力がない場合に、例え100歳近い場合でもその死に関してどうすべきかを全く決めることができない人々も結構な割合でいるのです。

「お医者様にお任せします」というのは我々の側からすると家族からの意思表示の放棄にしかなりません。まさにその点にこそに御家族の意思表示が必要なのですが、DNARに至るまでにも幾つかのステップがあり、いきなり救命救急措置を行わ無いというものでもないという点をなかなか理解してもらえないことも。

そこで、当方からは一時間ほどの時間を割いてでも患者の背金車となるべき御家族を一堂に集めて今後の方針に関してどういう場合にどうなるのか、それぞれの措置はどのような意味を持ちどういう様に行われるのかを事細かに説明していって最終的にどうすべきかという事に関する合意を文字通り「形成」していくことになります。

この作業、通常はスムースにいくのですが、そうでない場合もチラホラ。
しかし、幸いなことに私の今までの帰国後の治療において何らかの問題が生起したことはありません。真心をこめた説明と納得のいく常識的な治療。この点に全てがかかっていると思う私です。

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