今日、受け持ちのおばあさんが亡くなられました。
四年間受け持たせていただいた療養病棟のお婆さんでした。御年96歳。
大往生と言いたいところですが、最後の数カ月は意識もなくただただずっとベッドの上で横になって、中心静脈栄養で生きている状態でした。
ほんの数ヶ月前まではシルバーカーを勢いよく押して、周りの人からは「元気良く動きすぎて転倒が怖い」と言われるほどの状態だったんですが、次第に次第に元気がなくなり本当に萎むようにお亡くなりになられました。
最後に記したのは死因は”老衰”でした。この記述に関しては医師の中にも様々な意見があるのですが、呼吸がとまったから呼吸不全でもないし、心拍動がとまったから心不全でもありません。
これと言った確実な死因が出て来ない、まさに全身の細胞の老化の結果、細胞自体が息をすることに疲れた結果が全身に出てきたというような亡くなり方でした。
全国の多くの医師が同じ様に感じ考えていると思いますが、療養病棟では計算され尽くした人工的な水分と栄養が与えられた(超)高齢者達がベッドに寝たきりという状態を”医療の有るべき理想”とは程遠いと思いながらも、家族の要請や医療行為として人を生かせ続けるという仕事としての行いが実行されています。
今回の患者さんではご家族の方々から「四年間もの長い間本当におせわになりました。有難うございました。」と労いの言葉はいただきましたが、内心では忸怩たる思いでした。
自分はそうありたくないと思っていても、倫理を語る前に人を生かす技術だけが先に立ってしまうという現実。昭和の初期などであれば、食べられない=人生の終わりで済んだのでしょうが、そうもいかない平成の最後の日々。
自分の母親だったらどうしたのかと問われれば(既に互いに話はしてあるので)即答できるのですが、そうでない方には同じことを行えない迷いがあります。
平穏な死。
超長寿時代の今こそ、人が考えているようにはうまく手に入れられないのかもしれません。
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