家で有名人のことを話すとき、時折わからなくなる事があります。
それはその有名人、もしくはそれに近しい人達が生きているのか否かということなんですね。嫁さんに聞くと大体基本的には芸人関係の生死に関してはよく知っているのですが、それでもやはり思い出せない人もあるのはしょうがないところ。
会話の流れの中で「XXって生きてたっけ?」と言う感じの話になることがしばしばありまして、おもむろに手元のスマホでタンタンタンとチェックを入れたりするわけです。
その結果「あ、XXXX年にもう亡くなっとるよ」「え~、何で亡くなったんやったっけ?」「ああ、そうか、そう言えばXXが有ったね。」等という話の流れになって収束。
二人共既に50年前後生きておりますので、有名人でも自分の両親くらいの人達は沢山いるわけでして、若くして事故でなくなった方や自殺、病死、そして稀に事件に巻き込まれて等というケースもやはり自然とあるわけでして、やがては自分もカウントされる側へと回るんだなということが何となく想像できたりするわけです。
その逆に「え、あの人まだ生きとったんだ!」何ていう感じで、頭の中で勝手に一部の方々を彼岸へ送ってしまっていたり。W
まあ、当人にしてみれば実に失礼な話ですが、やはり80前後を境ににして蓋棺録に名を刻むケースが増えてきますので、時折ニュースで「xxさんが亡くなられました。95歳でした。ご冥福をお祈りいたします。」等と出てくると驚きマックスになったりすることもあるわけです。
しかし、こうやって皆が記憶のタスキの中で次々に現れては消えていきやがては本当にご本人も消える。私はいつも考えているのは家族、親族、知人の中でその人を覚えている人が消えたときこそ本当にその人が亡くなったときだというもの。
記憶の中でその人の声を反芻し、その人のぬくもりを感じることが出来る人がいる間はその人は死んでいないと思うんですよね。
そのスケールで言うと、人類レベルの記憶に残るような人は本当に一億人に一人も居ないと思うんですけど、そう言うレベルの亡くなった人はいわゆるアイコンであって、個人の殻は既に破ってしまっていると思うんです。多くの人にとってはアインシュタイン、ニュートンくらい?全世界レベルでその名を知られる人ってどれくらいなんでしょうね。
ノーベル賞受賞者だって例外ではありませんよね。その発見は永遠に残りますが、それを見つけた人は・・・。名前と業績は人類が続く間は不滅でしょうが、やがてはそれも運が良くてタダの偉人伝になれば良いほう。例えばインシュリンの発見者は?これほどの世紀の大発見であっても業績は残れども・・・なんです。
でもそれで良いではないですか。そうやって人類は進歩していきますので。事実の発見や発明の前には個人の栄光なんて実に刹那でしかありません。
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