今年の1月11日に高橋幸宏が亡くなったばかりでした。
そして今回、同じくYMOのメンバーであった坂本龍一の死(3/28)。高橋さんは20年の脳腫瘍摘出からの生還でしたが、寛解の願い届かず。そして坂本龍一は中咽頭癌が殺してしまいました。長生きするという事は生物として自然と「癌」に罹患する確率が上がるという事ですが、出来得ることであれば今の時代80台に到達して貰いたかったと思うのでした。
私は音楽のことはわからない人間なのですが、YMOの中で恐らく最も音楽的に創造的だったのは教授こと坂本龍一だったのではないかと感じます。ただ3人とも創作活動における方向性というのはそれぞれ全く異なるでしょうから、創造性の差というものを定量化する事はなかなか出来ないのでしょうが。
そもそもYMOに関する私の最も古い記憶は中学生の頃の音楽室での体験にまで遡ります。確か中学2年位だったと思うのですが、音楽の時間に「自分の好きな音楽を持ってきてそれをみんなに紹介する」という時間が設けられたことがありました。
今時の若い人には信じられないと思うのですが、九州のド田舎に住む当時の中学生にとってテレビとラジオ以外で音楽に触れるというのはなかなかチャンスの無い時代で、音楽を聴くと言っても実際にはそれを選び出して自分のものとして聴取するには先ずレコード・プレーヤーかカセット・テープ経由でした。しかし、そうは言っても基本的にお金が無ければレコードは買えず、テープも買えません。勿論、当時はCD登場前の世界。今の人から見れば音楽を聴くためのリソースは無い無い尽くしの世界でした。w
そんな時代にYMOのLPレコードを持ってきてそこに針を落とし大音量でいきなりなり始めた音楽がTOKIOでした。信じられないかもしれませんが、それに対する当時の我々の最初のリアクションは大爆笑というもの…。有り得ませんが、田舎者の中学生の「聞いたことのない異物」に対する反応というのはそういう救いようの無い原始的なものだったのが事実です。
得意満面でそのLPを持ってきた梶原くんは我々の反応に逆に面食らい、最後はなんとなくバツ悪そうにそのLPレコードをジャケットの中にしまい込んだのを覚えています。しかし、聞いている途中でその人工的なメロディに一部「かっこいい旋律」を感じていたのも他の友達とはシェアできなかった事実。
あの時のあの瞬間にタイムマシンで飛んでいけるのなら全力で梶原くんに土下座して「君の耳は俺達田舎者の中ではレベルが違いすぎたんだ」と謝りたい気持ちです。その後そのLPも含めてYMOの音楽が世界を席巻していったのは歴史の事実が証明した通り。今となってはセンスの欠片もない未開の田舎者の不明を恥じるばかりです。
坂本龍一氏の御冥福を心よりお祈りいたします。
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