私が耐えられないものが「一部の」フィクションです。特にテレビ関係の。
その多くはテレビ・ドラマですが、時には映画だったりもしますし書いてあるものだったりもします。一時期流行った携帯小説とかはその中でも私にとって最悪の部類で、ある人から「感動しました!読んでみてください。」とか言われて読み初めて我慢して読んだ最初の数ページでその文体と内容に激しい怒りと嫌悪感を覚えて止めました。
敢えてその小説(と言っていいのか?)の名前は挙げませんが、我々がアメリカにいた頃には日本で映画化もされて結構ヒットした話だったと思います。後になって聞いたところこの本を私に紹介してくれた若い彼は(彼女によると)本などほとんど読んだことがないという人物との事でしたが、やはり読書体験というのは本を読むときにその読後感とかに大きな影響を及ぼすのかもしれません。ホントにこんなものをよく読めるな・・・と思ったのですが、彼自信はナイスガイでしたので、人と読書というのはまた別の話なんだろうとは思いますが。
いつもこういったフィクションに関して嫁さんと議論(というよりも言い争い)になるのですが、フィクション/ドラマの設定で「リアルワールドであれば絶対に有り得ん!」という前提で始まる物語の中で「あたかもこれは本当に起きるかもと言いたげに」視聴者に見せ始めようとするものに強い嫌悪感を覚えるのです。(医療ドラマなんかは特に脚本家を呪い殺したくなるような酷いのが多いんですけどね。)
そういうドラマが始まったりすると、私が嫁さんの横でドラマの設定や出演者の台詞を罵り始めるので、毎度嫁さんはその手のドラマを予め録画しておいて私が決して観ることのない時間帯にこっそり観ているようです。要するに「一緒には観られん」とのことで、嫁さんには「有り得んってわかっててもそれがドラマだから良いの!」と強く言われるのですが、そのそもそもの大前提が二人の間で全く異なる譲れない一線ですので毎度お互いの顔を見て「だからお前は」「だからあんたは」と言う感じになって終わりです。w
私からすれば、有り得ない前提をベースにするようなお話というのがおおいに許されるのはSFであって、SFであれば映像化されるようなレベルのものは殆どが純粋に前提をぶっ飛ばして楽しめるものが多いというのが私の持論。宇宙船がワープをしようが、ワーム・ホールを使って別の宇宙に行こうが、異星人と会話しようがタイム・マシンを使っていろいろとやったりしようがそれはSFだからありなのです。
要するに普通の生活背景を写し込むようなヒューマン・ドラマで絶対無いような設定で話を始めるのは最終的にミスリーディングを黙認した様な荒唐無稽な起承転結を持っているものが多くて許せないのです。そしてそれを観て楽しんでいる聴衆も!(<嫁さん)そんなのに比べたら「事実は小説よりも奇なり」を地で行くノン・フィクションのほうがよっぽど良質のものが世の中には大量に存在すると私自身は思っていますが、ドラマ化は金がかかるし史実とズレたりすると批判が面倒だから恐らく及び腰なんでしょうけどね。
まあ、ここで私が書いたのは殆どが日本のテレビ局が作るクソ・ドラマのことに絞った話ですので、フィクションはフィクションとして世界中に良質のものがゴマンとあるわけですが、日本のテレビ局が公共の電波を使ってそういう行為を行っていることが単純に許せないと言ったほうが良いのでしょうかね、正直に。
そういうところが大人げないと毎度、嫁さんに強く窘(たしな)められるのですが、知ったことでは有りません・・・。生理的に受け付けないものは受け付けないのでした。(# ゚Д゚)
2 件のコメント:
激同!!
激しく同感しすぎて、そのあとがまだ続かない。
とにかくスッキリした。
ごくたまーーにコメントを書かせてもらっていますが、毎回のsmallGさんの内容に一日一度の胸のスッとする思いを飲み干しています。
orainobabasさん
私と同じようなことを感じておられる方もおられるのですね。ちょっとだけ安心しました、というかありがとうございました。w
誰にもほとんど同意して貰えるとは思えないことばかり毎日書いていると思っていたので逆に驚きです。
嫁さんのようなモノの見方のほうが標準なのかと・・・。
とは言え「標準」は世の中の大事な水準器ですけど、そればかりだと面白くないですしね!^^
コメントを投稿