世の中にはちょっとテレビに出たりして、人から貰った下手糞な曲を数曲歌っただけの自分をアーチスト等と尊称する方も居られます。
が、その手の自称脳内アーチストは脇に置いておいて、本当の芸術家と呼べる人達というのはどういう人なんだろうと本物と思われる歴史的人物たちの自伝や記述を見てみると、その多くが「創作」との戦いに明け暮れていたというのがアーチストと似非を峻別するんだろうなと思いました。
こういう事を考えざるを得なかったのは、娘が今回Pittから他のどこかの芸術系の大学に移動するという段階になって居るこの時期、果たして娘はこの移動を通じて何を得るのかということを考えざるを得なかったからです。
次女は若いから好きなことをしたいと言うのですが、その先にあるのは自分で築く自分自身の人生。私自身は自分の子供達に「XXになると良い」等という言葉をかけたことは神に誓って一度もありません。聞かれれば一緒に考えるという形で答えるんのでしょうが、聞かれたこともないですし。w
始まったばかりの20代も無為に過ごそうと思えばアッと言う間に使い切りますし、青い鳥はどこか遠くにいる訳でもないことはメーテルリンク先生の書かれた通りです。はい。
娘が絵を書くことが好きと言っても、それを将来の人生における趣味として磨くのか、自分の口から入れるメシ代を稼ぐための道具にするのか私にはわかりませんし、たぶん今の娘にもわかっていないとは思います。
しかし、娘の生活を見ていると24時間の生活の中で絵を描きたいという衝動が手を動かし続けると言うほどのものではないことは明らか。寡作であろうが多作であろうが、ギリギリと自分の手先から生み出される魂の絞り汁を紙の上に出していると言うほどの「勢い」は感じないのです。そういう意味ではやっぱり"好き"という範囲を超えないのかなと感じてしまうんですよね。環境が変わるとまた彼女自身もいろいろと変わるんでしょうか。
それと、もう一つ私の心から離れない疑問はサイエンスの世界などでは多くの場合どうしても必要となってくる系統的な厳しい教育が、芸術の世界でも同じ様に必要なものなのか?というものです。
楽器だったらやっぱりお師匠さんの存在というのはいかなる形でも必要なんでしょうけど、それでも桑田佳祐のように天才的メロディーメーカーは別に音楽大学に行っているわけでもないですし、ロダンが当時の芸術学校は尽く落ち続け、失敗を繰り返した後、師匠と呼ぶべき人物から深い影響を受け作品に更に磨きがかかっていったというような話を知るとアートというのは学校で技術を学ぶことは出来ても・・・その先、どうなんだろうかなとちょっと考えてしまうんですよね。
とはいえ、やっぱり素晴らしいアートを生み出し続ける人が集まっているその手の芸術系の大学なんかに行ってテクニカルなもの以上に何らかの啓発を受ける、素晴らしい仲間にインスパイアされるというのが己を磨く道なのかも等とそういうことに疎い私には金を出してあげること以上の何事もしてやれないし教えてあげられないのでした。
自分の知らない世界に子供達が自分の選択で進んで生き(行き)続けている現状、お父さんとしてはじっと見守るのが最良の選択なのでしょう。
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