2016年1月26日火曜日

無限の生を望むのか・・・

病院で高齢の患者さん達と話をしていると、酷い認知の無い人達の中には結構な割合で、己の長生きに「ここまで長生きするとは若い頃は全然思わんかった」「はよコロッと行きたいんやけどね」というようなことを言う人がごく普通にいます。

ところが不思議?なことに、患者さんの家族の方はこういった高齢者の方々の「生へのお別れ」を決して認めようとはしない方々がおられるのもまた事実なのです。九十代の人の臨終間際に「先生どうにかしてください」とか言われても、出来ることは本当に限られているのですが・・・。

そういったことを不思議と言ってしまう私の感覚がオカシイのかもしれませんので、(話が長くなることもあり)この手の宗教論争はしないという前提で話をしていくとすると、やはりその根底には「死」が生の延長線上にあるということを受け容れることの出来ない戦後の日本人の精神的な土壌があるのではないかと私は思うんです。

医療技術の発達が戦前までは到底無理と言われた病気でさえも魔法のように治療していくことで、一部の人々をして「医者が何らかの施術をすればこんな病気で人が亡くなるはずはない!」という誤った観念を持たせてしまったという事実がその背後にあるのではというのが私の想像の第一点。

もう一つは元気なうちに家族内で「死」ということに関して向い合って話すようなことがまず無いということかなと思います。もっともこれに関しては宗教的な要因として死を穢として遠ざけるという考え方もその底にはあるのでしょうが、この傾向は人が感染症などでコロコロと小さい頃から死んでいた戦前・戦中の経験が無い世代には特に強いのではないかと感じます。

わたしの両親などに聞くと、兄弟姉妹の中で実際には誰々の間には男の子がいて何歳の時に風邪で死んだ、とかいうのは全く普通にあったようで、実際に親戚中のおじさんおばさんは殆んどがそういう経験を持った高齢者達です。

しかし、その下の世代である我々はそうではなくてまさしく少子・少死の世代。何らかの事故や大きな病でなければ、なかなか兄弟姉妹の命が突然理不尽に亡くなるということを想像しづらい世代になってしまっています。

我々の世代が更に齢を重ねた時、己の親の生が消えていくことに対してどれほど「最後の瞬間」には肯定的に受容できるのか、興味深くもあるのです。きっと、病院における様々な医師側の対応も大きく変わっていく間(はざま)の時期にあるのではないかと思うのですが。

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