2016年1月9日土曜日

大学の世界ランキングの話・続き

例えば、ある大学Xの世界ランクがある年は20位だったものが翌年には30位になったとしましょう。

ではこの10位分の差というものにその大学を選ぶ者にとって一体どれほどの意味があるというのでしょうか。(例えそれが上向きの十位分の差だとしても。)まあ、何事かを成し遂げる人の多くはこんな意味不明のランキングには関係なく人生においてやるべきことは黙々とやり遂げるんでしょうが、騙される人達が居ることもまた事実。そういう意味では、そのレベルの人達に対しては「罪作り」ではあります。

勿論アメリカにも当然のように有る「学歴」を目標にして「人脈」を作って将来を形成しようと言う連中もワンサカいるのは事実ですが、そのような「騒動」を外から持ちこんでいるのは実はこう言った学歴競争の厳しいアジア各国からやってくる多数のアジア系学生だったりするのですからマッチポンプもいいところです。

もともとこう言ったランキングや表彰とは最も無縁であるべきものがほんとうの意味での「学問」や「研究」の本質であるべきだと私自身は今でも当たり前のように考える人間ですが、いわゆる学""的な「勝ち組」を僭称するしか人生における喜びを見つけられないような人達には、順位の付かない学""的なお話はそもそも何の興味も喚び起こさ無いのかもしれません。きっとそういう人は「貼りだされる順位」にこそ強い拘りがあるんでしょうし、それが人生の喜びや目的と強く結びついているんでしょうから。

(話は横滑りしますが、順位付けといえば、昔私自身が高校生の時、テストの結果通知が有るたびに採点の間違いや交渉の余地のある回答を粘り強く探し出して先生と根気強く話し合う女の子たちの一群がいることを知って驚いたことがありましたが、「そんなことになんか意味があるんか?」と思っていました。(そういう自分はしっかり悲惨な点数だったりして「うーむ、親には見せられんな〜」などと頭がくらくらした記憶があります。w))

何れにしても、大学教育を受けること自体の意味も含めて己が何のために高等教育を受けるのかという意味を全く考えないうちに成績だけ良くて大学に受かってしまった人というのは、大きな喪失感を受けるのが当たり前なんじゃないかな。それに、そのまま受動的に「学習」(≠学問・研究)していっただけでは、右から左に仕事を処理するし可能のない主体性無き単なる「仕事のプロセッサ」にしかならないでしょう?

話は毎度のごとく脱線してしまいましたが「問題を見つけ自分で悩み、自分で活路を開く、そして最後はプロジェクトを企画して人をも助ける仕事をする人物になる」ためには、こんなランキングを元に大学を決めるような「間違い」があってはならないと考えます。

この手の話は夜店の屋台に貼り付けてあるクジの当たり表一覧程度のものとしてみておくのが一番いいんじゃないでしょうか。

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