ひと昔の昭和には男が70前には、女性も70ちょいではアッチの世界に旅立っていましたが、いまではそれもそれぞれ15年くらいプラスされている訳ですから、長生きすると同時に認知機能が低下するというインシデントを経験するような人達が出現しても何の驚きも無い訳です。
ところが、そういう認知機能の低下が出現しても嫁さんの方が先に出たり旦那さんの方が先に出たり、両方出てきて最終的には共同生活自体が無い経たなくなったりなどというのもこれまた良くある話なんですね。
そういう状況になってしまう親の存在経験する私くらいの年齢の人達は今時の日本には掃いて捨てる程いるわけでして、最近そういう患者さんが入院して来た時にその息子さんや娘さんとお話をさせていただく機会が多いのですが、話を伺う度に「もう殆ど俺の身の上話やな」というような事ばかりになってきました。
幸いにしてというか、辛くも自分の親には「今のところ」大暴れしたり全くご飯が食べられないようなタイプの認知の出現は無いのですが、それも偶々という話。明日何かが起こっても誰も驚かないような年齢ですから。
さて、病院に来て認知症状が進んで寝たきりだったり認知能力が極端に落ちてしまった配偶者を眼の前にして、その相棒側の人物は様々な反応を見せてくれます。
ある人は淡々と、そしてある人は嘆き悲しみ、またある人はその認知が進んでしまった連れ合いが少し前まで如何にきちんと生活して仕事もしていたのかというのを滔々とお話してくれたり。そしてある人は淡々と眼の前の事実を受け容れ「仕方ないですね」と覚悟の言葉を言葉少なく語ったり。
それでも、一般的に認知症の進行は死に繋がる病だという事への理解は最近随分と進んできて、家族さんに対する説明もかなり容易に理解して下さる方々が増えてきたのは現場の事実です。
これから更に弱いを重ねていく自分んですが、自分が相手にとって負担になるような認知症の持ち主になるのか、それとも嫁さんが?等と考えると、現場を幾ら見ていてもいろいろと複雑な気持ちになるのは致し方ない事なのか。
そうなる前にポクッと逝きたいと願うのは世の習いでしょうか。w
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