2025年1月19日日曜日

大人になって気づく事

若い頃には気付かなくても、本を読んだり経験したりするうちに「だよな」っていう感じで腑に落ちる事があります。

それが真実なのかどうかなんていうのは脇に置いておいて「自分なりに悟る事」とでも言い換えたら良いのでしょうか。そういう事は歳をとる度にある程度は積み重なっていくものだと思うんですが、私的にはその中の一つに「他人は自分が思って居るほどあなたの事を気にしていない」というものがあると思います。

こういう事は自分の経験や生きてきたバックグラウンドが異なれば違う結論を得るでしょうから、私と反対の結論に到達する人も当然居る訳で、何れが正しいというものでも無いでしょう。

齢を重ねるなかで、人の目を気にして短い人生を送る事、またはそういう生き方をする人々の行為のアホらしさというものをみてしまうと、生物というものは何とも自分の小さな欲を満たす方向に生きる事に流れていくいじましい生き物だなと思ってしまいます。^^

その時代その時代の短い時の流れのはざまで孔雀が羽を拡げるようにいろいろな形で自分を飾り老いていく。その羽はブランド物の服であったり靴であったり、家であったり車であったり地位であったりするのでしょうが、当然ですがその何れも墓に持っていくことは出来ません。結局、後世に残せるものは自分の頭と体が作り出した作品や行為だけ。

目立つものは学術的業績、思想、遺伝子の乗り物としての子孫、特許、建築物、美術、育てた人物達などの諸々のアウトプットなのでしょうが、結局そこには個人の栄誉というのはほぼ関係ありません。例えあってもその時点では殆どの人は既に墓の中でしょうし、生きている間にその人が生物として栄誉を受けてもそう遠く無い未来には墓の中。栄光はその人のヒストリーには残っても本人の上に輝くのはごく短い時間。死んだ後に有名になるなんてのも日常茶飯事ですし。

ちょっと話が飛ぶようん思えるかもしれませんが、そう考えると逆にネットで流行りの人になろうと誹謗中傷を受け事になろうと、それを気にする事などというのも実は下らない事なのだという気がします。

そもそもエゴ・サーチを全くしない上に、人の話を聞かない人間である私のようなタイプの人間にはネットでの誹謗中傷が鬼の様に降り積もって来ても見もしないでしょうから、傷がつかないような気がします。インスタ、X、FBの何れのメディアもインストールはしていますが、ほぼ年に数回、しかも気まぐれでしか見ないような人間には恐らく声自体が届きませんし。

今回、こんな事を書いたのも、兵庫県知事の斎藤関連の事件に関わった元県議の方がSNSの誹謗中傷に耐え切れずに自ら命を絶ったのではないかというニュースを視て、また多くの人達が組織の中の裏アカウントなどで語られる自分に関するある事無い事を気にして鬱になったり不登校になったり、出社拒否、果ては命を絶ったり等という話を聞いて書いたものです。多くのネット上の噂で苦しむ人々は恐らく物凄く気になった挙句、ネット上の自分の噂を恐る恐る経時的に見返してしまうのでしょう。

しかし、私は言いたいです。誹謗中傷「気にするな」「ネットなんか見なくても生きていける」と。人の視線を気にしない生き方を選んで欲しいとオッサンは思うのです。

人の噂も75日。デジタルデータで残される糞の垂れ流されたような誹謗中傷も無数にある事でしょうが、やがて確実にそのような事象に対する法の反撃手段が整備される時代が来ることでしょう。それに、そんな事を書き込む輩というのは老若男女誰であれ99%は「なーんも考えず」書き込んでいる事でしょう。開示請求を受けて己が読み返しても「自分が書いた?」というような人間も沢山。しかも、そんな連中はほぼ全員が何の社会的影響力も無い様な有象無象であることは今までに逮捕された連中の顔ぶれをみれば何よりも明らかな事実です。法に反撃を受けると青い顔して縮み上がるバカばっか。w

結局、褒められようと謗られようと大したこと無いのです。人は忘れ、噂は消え、それを流した人々も老い消える。世の中そんなもんです。時間が経てば多くの事は二転三転しつつも真実が炙り出されるもの。時の神は本当の正義はどこにあったかを最後には必ず示すものだと私は思っています。

1 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

本当にその通り、早く解って欲しい。