アメリカに私自身が居た頃に時々日本から送られてくる荷物は何となく嬉しいものでした。
勿論、私向けのものなどは皆無で、基本的には嫁さんと子供達向けのものが諸々ガッチリつめ込まれたパッケージが送られてくるというのが基本でした。
食べ物、日本独自の便利グッズ、美容品やその他のボディ・ケア用品、ちょっとした装飾品やリクエストした本などが中心でした。
私が一人、日本で逆単身赴任を始めてからもほぼ二、三ヶ月に一個の割合でパッケージを送る感じでアメリカの家族に物を送ってきましたが、送るのは頼まれたものとお菓子と美容関連品がほとんど、たまに本も入れますが、、、。
何と言っても実家から送られてくるものの中には「たまーーーーーに」封筒に入れた少額の日本円やドルが入っておりまして、それはそれで子供たちも喜んでおったのですが、あんまり記憶には残らないんですよね。
その瞬間は喜ぶけど、喜びの記憶が視覚とともに体験として焼きつくという意味ではやっぱりお金よりもモノ何じゃないかなって感じます。基本的には、送ったモノ自体の合計が全然一万円を超えてないようなものの集合体であっても(例えて言えばうまい棒300本とかw)、パッキングして郵送料込みで送るとそれなりの値段がかかるものですが、こういう風に「モノ」として送られると、封筒に一万円をピラリと入れられて送られるよりもインパクト及び受け取り側の頬の緩み具合はやっぱうまい棒300本のほうが子供も大人も喜ぶような気がしてます。
これってやっぱり贈り物を選択している時の相手の手間暇や顔が想像できるからでしょうかね。
私がアメリカに居た時は、実家から母が送ってくる多くの「意味不明な諸々の贈り物」に戸惑いを感じつつも、(実際嫁さんと???となって、お互い顔を見合わせて苦笑いしてしまうようなものも多々有りましたが!)何か俺達の事を考えていろいろ詰め込んだんだろうな〜と考えると、やっぱ金よりモノのほうが送り手としても楽しいのかななんて考えてしまいました。
アメリカに居た当時の世帯主的には「キャッシュ」のほうが大助かりだったんですが、いざ己が日本に滞在して送り手になってみると、やっぱりモノを発送するというのは永遠に喜びとしては消えないなと思いました。
これはどんなにE-maiが便利な道具として日常的に発達普及しても、ここ一番では節目の挨拶や感謝を表す手段として葉書や手紙が持つ「物理的な重み」には勝てないの同じような事なのかもしれませんね。
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