日本に戻って医療行為を再開してすぐに気づいたことは、爺さん婆さんが本当に意識もないような状況で長生き「させられている」状況の多さ。
医療行為を日本で行っている方にとっては「何を今更?」と言う感じなのでしょうが、私には実に奇妙に思えます。やっぱ日本の外での生活が長かったからか。いい意味でも悪い意味でも。w
日常の医療現場を見ていて思うのは、家族親族も病院側も全てを含めて、日本では命に対する哲学的・宗教的考察が日頃からなされていないと考えるシーンの多さでしょうか。命を救うシーンにおいて、何がなんでも徹底的に延命を求める方々も居れば、苦しむような事はせず静かにお見送りしていただけませんか、と言う方々も当然いらっしゃるのですが、どちらの場合であろうとそれぞれがそういう結論に至った過程というのが余りにも「空」だというのがほとんどのような気がします。
日本の現代の家族においては「生も死も」共に病院で起きている出来事で、家庭では人生の起承転結を家族全員が共有することも殆ど無くなっています。人が生まれて成長し、家族や自分自身を支え、やがては老いて病を得て死んでいく・・・という、人の生物としての当然の起承転結の大切な両端である始まりと終わりを自分の目で見たことのない人達が老いも若きも大勢いる社会ってやはり人の「死」に関しては正面から相対する事が「当然」出来ないのではないかと私は考えるのです。
日々の忙しさに流されてそういった事を考察する時間も無ければ考えるきっかけを作る日常的なレベルでのネタも無い。やっぱりこれは良くないと思います。
私はなにか特定の宗教を信奉することは有りませんが、お天道様には手を合わせ、奇跡のような自然の恵みにも両手を合わせて感謝することを日本人として誇りに思っているものです。生きてこそ!という言葉と並行して如何に人はその終りを迎えるべきかということに関する常日頃からの変遷する個人的考察「も」心の片隅に留めおいておくという事があっても良いのではないでしょうか。
人の生老病死もその中の流れや輪廻の一環としてどうあるべきかを考えていったら、日本の「インチキな」世界一長寿という数字が、どれほどその事象の背景に深く、暗く、かつ空虚な問題を抱えているのか・・・日々医療行為を行うものとして暗然とした気持ちになるのが最近特に正直な感想なのです。
野垂れ死にしようと、病を得て死のうと「ああ、辛いことも楽しいこともあれこれ多かったけど母ちゃん産んでくれてくれてありがとう」と心に思って口の端でニヤッと笑って病院の外で自然に終われる人生って良いよなって私は思うんですが。(奥の細道的な死に心を寄せるのが昔からなんですよね。本当に墓碑も戒名も葬式も何も要らんと心から思います。俺の嫁さん困るか?w)
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