2016年7月17日日曜日

限界集落という考え

田舎に行くと生活上の不便さにおいては驚くようなところが今でも沢山あります。

どんな意味で驚くかというのがこれまた多種多様なのですが、大きな街での”フツウ”の生活に慣れた人にとってはコンビニが無いということを始めとして、日常生活における”便利”を演出してくれる種々のものが日常生活の移動範囲に無いという表現が一番ザックリしていて良い表現かもしれません。

しかし、不便と感じる程度には個人による感じ方には大きな差があって、生まれ育ってきた個人の体験によるものが非常に大きい事は、多くの方が納得されるのではないかと思います。

近所にコンビニがずらりと各種揃い、夜も大型電気店が夜遅くまでネオンを輝かせ、金さえ出せば24時間いろいろな食事が出てきて、地下鉄が夜中になっても普通に走っているようなエリアで育った人にとっては、夜の7時頃には商店街のシャッターがほぼ締まりきり、あとは地域の顔見知りの人達が三々五々集まってくるような夜の店が数件開いているような地域に旅で行ったりすると、最初はそれを風情とか旅情とかいう言葉で表現するでしょうが、生活が長くなると居住地域としての見方は全く別物になってきます。

日常生活の必需品を揃えるショッピングの問題のみならず、郵便局や医療施設、消防その他多くの事にまたがって今までのように近所にそんな施設が無いことが当たり前の生活がそこで始まるわけです。
元々そんなことに耐えられる人達というのは、無いことが当たり前の状態で生活してきた人達でしょうから、便利になることを便利とは感じても、不便を不便だと感じる大きさが便利な状況しか知らない人達よりかはより小さいはず。

しかし、かく言う私にとっても、ど田舎から出てきて、いろいろと街の便利さを知ってしまうとやはり生活上の種々の便利さという点における逆戻りするという行為は相当に難しい決断になってきます。
ショッピングなどはアマゾンその他の郵送で済んでも、もっとも問題となるのは身体の安全です。これだけは家族持ちには譲れない大切なポイント。たとえ己はどうでも良いと嘯いたところで、家族の一員には迷惑をかけられないのが家長の責任。

教育、警察、消防は無論ですが、最大の、そして最もお世話になるのはやはり医療機関。この一点が揺るがせであればどうしても家族の安全が疎かになります。それが維持できないことになっているのが多くの限界集落と言われるエリアです。

ここ十年ほど限界集落という言葉がよくメディアを賑わしてきましたが、人口が収縮していく今の日本においては、公共事業に金を使ったり、補助金をズバズバ全国にばらまくことには何のビジョンもなければ成果もない、ただのジジババの集票目当ての一時しのぎ策でしか有りません。そもそもその財源自体が枯渇していますし・・・。

コンパクトシティ化による地方都市のレスキューもアイデアとしては叫ばれていますが、そもそも既に大量の限界集落が存在する日本においてはそういった最低限の公共サービスが享受出来ないエリアであったところで、職を探す困難さに伴う経済的な理由や慣れ親しんできた土地への愛着、今更になっての他の土地へ移動しての生活の不安などが複雑に絡み合って、多くの人をその土地に縛り付けているのですから動かすのはそう簡単では有りません。

それでも、文句を言わずにそのまま「そんなもんだ」と割り切れればよいのですが、そういかない人達も居るわけなんですね。特に便利だった頃を体で覚えてしまった人達にとってはかなり無理。そのなかでも医療機関の質が低下するのは耐えられない人が多いようです。

寂れていく町、街、市の中には公立病院を維持できずに医者に逃げられていく自治体があり、医者のコミュニティーではよくそれらが話題になって、ネット上で投稿に返信が沢山付いています。しかし、そうなるに至った内情を知れば知るほど、多くのそういった自治体では首長や議会の無策ぶりと無理解が最終的にその自治体で医者をそのエリアから蹴りだしてしまっている事が多いのが内情。

しかし、その議会を構成する人選の主体であるそのエリアのサービスの享受者たる住民自身が全く医療従事者の事を「金を払っているんだから24時間働け」みたいな感じで見ているひとが多いのに呆れてしまいます。じつはそこにつぎ込まれている金も地方交付税交付金などからやってきた国や都会が稼いできてばら撒いているお金が元になってるわけで、サービスをリクエストしている住民が稼いだものではない事が殆んどなんですけどね。年金をあまり払わず世界でも稀なほどの奇跡の医療レベルを享受している世代にはそういった仕組みは全く理解しようとはしないひとが多いのです。自分たちにとって少しでも理解できない改革案が医療者側から出てくると「オマエ何様?」モードに移行してくる事がしばしば。

挙句の果てには僻地まで来てくれて、勉強や安定した収入のチャンスを蹴ってでもその地域の医療の維持のためにと、やっと医者になってくれた先生たちの日常を監視して24時間縛り付け、あらぬ噂でボコボコにして追い出すなんていう連中も居るという。もうこうなってくると、殆んどマゾヒズムの世界なんですけどね。w 
噂は噂を呼び、その噂は医療者のコミュニティではネット上の情報としてきっちり残る時代です。そういった自治体はまともな医療サービスを受けられなくなって益々医療サービスの質は低下して、、、という悪循環を生じ始めるわけですが、まあ、それも元はといえば身から出た錆。

医者は新聞紙や週刊誌が語るのとは違って、多くの公共病院のドクターが自己犠牲も厭わず身を削って時間外労働をやっています。しかし、それはそのサービスの享受者の笑顔と感謝があればこそ。金を積んだから、札ビラで横っ面をはたいたからと言って発生するるような類のものではないのだということを全く解っていない”知性のイナカモノ”が多いことには呆れるばかりですが、まあ、そういったところは自殺しているのと一緒ですから何も言いますまい。

そうやって頑張ってきた挙句に最終決断としてその病院を去る決断をされたあるドクターのお話を読んで、改めて日本の田舎は縮んでいくだろうなと考えた次第です。

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4 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

「ドクターのお話」を読みました。
医療関係者じゃない一般人としては過疎化の進んだ地域の医師不足に関して
その地域に行くと大変なんだろうな~ぐらいの薄っすらとした認識でしたが
医師を受け入れる側の問題もあるんですね。
Dr.コトー(知ってる例がドラマしかない…汗)もそういう視点で見れば
志木那島村役場の職員(筧利夫)が診療所事務員としてフォローをしていますし
同じく村役場の課長(小林薫)が島民にも働きかけて
コトーが島でやっていきやすいようにフォローしていますね。
役場の人だけでなく島民も島の診療所を守るために協力をする…
「ドクターのお話」によると、今春の選挙結果が病院・地域の行く末に
大きくかかわることになるのに、ああなってしまったと。
医療以外の仕事ぶりを町民が高く評価したのかもしれませんし
どうしたって健康な人の数>病院に通ってる人の数なので
視点がそこに向いてない有権者もいたのかもしれませんが
有権者も勉強しないと大変なことになるんですね。(都知事選も!)

「こっちは金を払っているんだから」というのは、どんな場面でも嫌ですね。

small G さんのコメント...

私は逆にDr.コトー診療所を読んだことがないんですよ。
(そのモデルとなったお医者さんのお話はインタビューとして読んだことがあるのですが。)

こう言った仕事は医師と地域住民の互いの助け合いと相互の信頼があってはじめて成り立つものであって、金銭やスキーム論だけではどうしようもないところが多々あります。最後の先生の例以外は上げませんでしたが、実際にはもっと酷いところもまだまだあるようです。
要するに、「昭和のダメおやじ」的な能力も何もない地元の田舎名士の方々が成駒的に手に入れた職種が市町村長というパターンが未だに多いようで、下につく行政職もいろんな意味で大変でしょうね。

都知事選も自民党都議連のボスが推すバカ神輿の増田さんとか、どう見てもただの傀儡なんですが、他の人達もね。。。
まだまだそこら辺の進学校の高校の生徒会長のほうが能力や柔軟性の点ではマシかもしれません。w

gotoguy さんのコメント...

うちの田舎(Gさんが泊まった家ではなくて奥の実家の方)は正真正銘の限界集落ですが、もともと診療所すらないという(笑)。
でもうちの市は医療に関しては手厚いです。書かれている事例との違いを考察してみると、本当に限界集落の数が多いので文字通り切実な問題だからだと思います。切実なので、もし互いに何らかの不満があったとしても当然我慢しますよね。

small G さんのコメント...

gotoguyさんお久です。
いや実際、その「お互いの助け合い」という意識こそが限界を限界から解き放つキーワードだと思うんですが、解らない人達には永遠に解らんと思います。
切実さの度合いが違うと人間、わがまま言ってられませんもんね。w

四万十の美しさは、限界集落であっても住む意味がある美しい故郷だと思います。
GOTOGUYさんが羨ましいです。嫁さんがアメリカから帰国したら、時間を見つけてまた行きます!