准看の学校に行きたいとか、正看護師になりたいと言う人達の勉強を見ています。
しかし、何度勉強を教えても一番困るのは基礎の基礎たる土台の部分が全くできていない子達が異常に多いことでしょうか。もう一つは根気の無さ・・・。欠けている根気の方は、私の場合はインセンティブではなく”例え話とペナルティ”でなんとかしようとするのですが、そもそもいろいろとこみ入った話をしてもそういったことを理解出来るだけの日本語の基礎が出来ていない事が多いことに驚きます。
准看から正看護師になろうという子はまだしも、本当に高校卒業の資格持っとるんか?というような子の中には、准看の学校に進学したいと”口では”言うけれども全く中身が伴わない子達の”問題の多さ”にガックリすることが多いです。
こう言った子たちの最大の共通点は、実は”もしも”の話が全く頭の中で再構成できないことでしょうか・・・。「仮にXXだとして」とか、「もしXXだとしたら」というような話を切り出すと途端に??という顔をされることが本当に多いです。それは、問題の解説においても、実生活上における今後の展望の話においてもしかり。近い将来において自分が看護師として働いている姿というような簡単なことも思い描けない。
要するに、具体的で極々身近な眼の前で起きている話しか頭の中に再構成できないのです。人が”解った!”という境地に達するためには、頭の中でその事実が図示化出来るとか、途中のステップ無しでも、当たり前のものとしてわかるからわかる、などという体験が必要なのでしょうが、彼らはそこに至るまでの”しつこく考え続ける”という作業が非常に苦手、もしくは行わないのです。
誰にでも、低いレベルから高いレベルまで、いろいろなレベルでの”わからない”ことを解るようにする為の経験と訓練がなければ次のステップへの展望は開けないという日常がありますが、そのステップを今までどれだけ積んできたかがネガティブな意味で如実にわかることが彼らとの受け応えをしていると本当に多い。orz
小学生が”いちたすいち”が解った日から、数学者が素数の分布のある事実について新発見をするレベルまで、真理を理解するための多段階のステップの基礎が出来ていないために、前に進めない、上に上昇していけない子達の何と多いことか・・・。本当に残念でなりません。20歳になっても1次関数は愚か、日本語の読み書きの基礎が出来ていない子が高校卒業の資格を持っているという事実が最初、俄には信じられませんでしたが、実際にこれだけの”人生における次のステップへの準備”が出来ていない子達が、群れを成しているのを見て、彼らを取り敢えず准看の学校に試験だけ通して押しこむのは果たして正しいことなのか・・・。
看護師になったとして、果たして点滴の逆算が出来るのか、正しい日本語での確実な指示の遣り取りが出来るのか、患者さん達と正しい言葉遣いでスムースなコミュニケーションが取れるのか、、、。
義務教育は本当に偉大だと思います。義務教育がきちんと消化されていれば、人生における生活には全く支障がないはず。それから先はその組み合わせによる応用編ですが、基礎が余りにスカスカ、特に日本語自体が駄目だとその先の全てのことの積み上げが本当に難しいと、彼らを見ていると感じます。
彼らが”言葉を疎かにするものに未来は無い”と、改めて嫌になるほどわかるのは、失敗を重ね、老いて悔いるまで発生しないのでしょうか。それでも気づいてくれれば、まだ、遠い未来にはその子の子達が変わるチャンスもあるかもしれませんが・・・。
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