世の中には「お爺ちゃん銀行」なるものが有るようです。
少なくとも私の嫁さんの実家ではその言葉は単語として普通に認識されておりますが、その由来はいつでも何か困ったことが有るとどこからともなく現れてサッと金銭を支払ってくれるお爺ちゃんが居た事から始まったようです。
私の親戚はそんな者ものを一切期待できるような爺さん婆さんはおらず、常に私の親の方からパチンコ代の為の小遣いを時々渡していたレベルですので全くの真逆ですね。w(私が未だ大学生の頃に亡くなった親父の側の婆様に至ってはまともに教育も受けていないような明治のド田舎の人間で、カタカナを読み書きするくらいが精一杯で、教養などというものにはまるっきり無縁の”趣味はパチンコ!”の人でした。母方の祖父母はその反対だったようですが。)
さて、今回の長崎帰りで子供達を含めて彼らの祖父母がお小遣い、お祝いを含めて諸々に使ってくれたお金の総額を今日夜の便で息子とともに長崎から帰ってきた嫁さんと類推したのですが、お祝い関係だけで30万、飛行機のチケット代で十数万、その他もろもろのお祝い会の開催、食事代などで確実に20万程度はいっているようで、一体全体今回の”私以外”の久々の帰国後訪問に幾ら使ったのかと背筋が寒くなるようなレベルの出費をしてくれたようで本当に頭が上がりません。
実は、こういった親から子へ、爺さんから子や孫へという出費は嫁さんの実家では何と言うか”一族の風習”の様になっているところがあるのは結婚当初から気づいていたのですが、何ともこの風習に関しては私は口出しも手出しも出来ない世界でした。しかし、私自身もそういった行為を何十回と見るうちに”子孫のために美田は残さず”としながらも、生きているうちに使える金はきれいに使っていくという(無論、セーブしておかなければならない金はセーブ!)方法論にかなり影響を受けてきました。
私自身は身を飾ろうとか贅沢をしようという感覚は全く無いので金は使うところがないのですが、今の子育ての最終フェーズではなかなか経済的に余裕を持てるわけでもなく、なかなか義父のように振る舞うこともかなわない状況で、本当にそういった行為ができるようなるのかは甚だ心もとないのですが、頑張らねばと思う今日このごろです。w
私は使った分だけ自分の人生の戻ってくるという考えを結構信奉しておりますので・・・。(奢られるより奢る人になりたいものです。)
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