50過ぎまで生きてきて少なくとも今の人間の世界ではまず間違いないと思われる事柄がいくつかあることを学びました。
幾つかある中でも、透明度の高さで一番に出てくる圧倒的な真実と言えば「死は誰にでも平等確実にやってくる」ということでしょうか。これはまあ、誰もが認めざるを得ないガチの不可避イベントで、子供から大人まで正常な思考回路があれば誰でもそれを疑う人は無いでしょう。この不動の真実の前にヒトは哲学、ドラマ、小説、生物学など諸々の死をめぐるめくるめく物語を長年にわたって紡いできたわけです。
ただ、その死に至るまでの長さには結構な不平等がある訳で、生まれる前に腹の中で死んでしまうこともあれば100年以上もただ大過なく生きてやっぱり土に還っていく人達もいるわけです。
ところが、更によく考えてみるとそもそも生まれてこない命のほうが圧倒的に多いわけで、精子や卵子云々と言う前に生物としてこの世の中に”動くもの”として選択されて出てくることが実は一番の奇跡な訳なんですが、我々はそれにはなかなか気付きません。
じゃあ、その凄い確率を通り抜けてやってきた生物の皆さんが皆幸せかというと、生まれていきなりバクテリアでしたとかプランクトンでした〜!何ていうのがやっぱり圧倒的で、ただゴソゴソと動き回って光合成したり分裂したりして一生を終えるのがまた圧倒的大多数。w
こうやって”考える”という経験を認識すること無く食べられたり踏みつけられたりして消えていく命が殆んどなんですが、反対に考える能力を持った故の悲劇もそこにはあるということは日常の我々の生活を見れば枚挙に暇無し。
結局のところ高等脊椎動物として「考える葦」である人間に生まれでたことが幸せかというとこれまた微妙な話になってしまいますよね。ただし、その存在の特異なことは”自分の存在”を客観的に認識できることにあるわけで、その奇跡の装置である脳味噌で自分の脳味噌を研究する能力があるというチョットあり得ないイベントを体得した生物としてその価値があるのではないかと考えます。自己の存在を認識するというのはヤッパリ能力の獲得という点においては大ジャンプですよね。
その発達した頭脳がこれまた複雑な反応を経ることでいろいろと素晴らしいことやろくでもないことを考えるんですが、所詮は殆どが地球の表面での出来事。宇宙の歴史やサイズに比べれば、地球に何が起ころうとも、それが例え消えたとしても”宇宙にとっては”サハラ砂漠で風に煽られた砂が一粒だけ1ミリほどポロッと動いた程度のものでさえないというミクロのレベルの話になっちゃいます。
こうやってスケールを大きくしすぎると、世の中の様々なことが実に瑣末なことに思えてくるのですが、生物としては明日動くためのエネルギーとしての食料を得るためにモゾモゾと仕事をしていかなければならないこともまた事実であることを、鏡を覗き込んだ己を見るたびに思い知らされるのでありました。
なんだか今日は訳のわからんことをダラダラと書いてしまいました。疲れてんのかな。俺の脳味噌。w