最近つくづく、かつ改めて思うことがあります。
生きるという中での”食べる”ことの大切さです。
前回、両親を名古屋に呼んで一緒に夜食を食べた時に母親の少食ぶりにちょっと衝撃を受けた話は以前ここでも書いたのですが、大方の人が歳を取ってくると、ある程度食が細くなるのはまあ普通のこととして受け容れられる話ですが、それも必ず”限界”と言うものがあります。
つまりは体がその機能を維持していくだけの最低限のラインをある期間以上に取り込めなくなったら、体はその時点であちこちにガタを来すことになります。実際、今の日本の高齢者の多くの方々はその点で昔とは違った余生を送っています。例えば脳機能障害を来すような各種の疾患において最終的に嚥下機能その他の理由で次第に摂食、飲水が出来なくなった方々でも、各種の方法で栄養と水分の摂取は可能です。
例えば中心静脈栄養、例えば経管栄養、他にも胃瘻造設、また一時凌ぎではありますが天敵で暫く・・・などという手も取ります。本質的には経口摂取が理想であることには変わりないのですが、誤嚥の問題が大きいだけでなく、85を超えてきて認知が進んでくると、中には本当に”食べる”という行為自身を忘れてしまう人もいてこうなると口に介助でご飯を持っていってあげても入れたまま吐きもせず、呑み込みもせずという事になり、結局は最初の書いた方法の何れかを慎重に選ぶということも。
しかし思うんですよね。本当は食べることが出来なくなった時点でもう人間はその人生をある程度終わる準備を始めてもい良いのではないかって。
私の両親は私に対して「自分に意識がなくなって体に管を繋ぐようにすることでしか命を繋ぐことが出来なくなったら治療はするな」と厳命しております。これはある種の遺言だと思って真摯に向き合っているのですが、物事は前提にするようなピュアな条件のみが存在するわけでもありません。いろいろあるのでしょうが、いざとなったら己の良心に従って命を預かるのみですね。
しかし、書くは易く、実際には簡単にはいかない難しい話です。
0 件のコメント:
コメントを投稿