人ってどこまで正気を保つことが出来るんでしょうかね。
正気を保つことが出来なくなった=気がふ(狂)れた、なんてことになるシーンを映画や小説では昔から繰り返し繰り返し演じられたり描かれたりしています。
最近も肉体的にも精神的にも”極限”の状況下で年単位で捕虜にされていた人間達の脱走の話をある映画で見ましたが、人間の心理の内側を描くことで各個人の異常な状況に対する耐性の差がよく描かれた物語でした。
抑えつけられても閉じ込められても、滅入ることはあっても決して狂わない人間もあれば、アッと言う間に自暴自棄になってその後はもう一直線に廃人化していく人間もいると言う設定でしたが、実際の生活をしていく中では例えば最も人間にそのような状況を与える”非日常の異常事態”というのはどんな状況か。
例えば戦争や炭坑崩落での閉じ込め、アポロ13の置かれたような宇宙空間での絶体絶命の状況等だと思うんですが、それでもその差を産み出すのは希望を失う人間とそれを保ち続ける人間の差だと感じます。
”必死に生き残る”というのは言うは易しの典型で、己にそのような事態が起きた時に生きるためのガソリンを持っているか否か、そしてそのガソリンを使う目的が或るか否かが自分に正気を保つ理由を与えてくれるんだと信じています。
私の場合は一人では生きていくことの出来ない息子がそれに当たるでしょうか。
最後の最後まで希望を捨てない。
虫ケラと言われようが、どんな状況に置かれようが、それでも希望は捨てないというのは人生というストレスそのものに対する一つの大事な答えではないでしょうか。みっともなくても、惨めでも、ヤッパリ生きていくことで誰かの役に立つ事ができる限りは生きていく意味はいくらでもあるって最近は考えるようになりました。
人から生きる意味を与えられるのではなく、自分の頭でその意味を考えることでまた違う明日がやってくると思えるのは唯一人間だけが成し得ることだと考えます。
別に高尚な目的でなくとも、例えば高齢の患者さん達を見ていても、笑って日々を過ごせる人と哀しみに身を包(くる)んでいる人達の差は、生きてさえいれば何かおもろい事が有る、美味いものが食べられるということを想像できる人物か否かという単純な差であるような気もします。
殆どの人にとって、人生単純平坦、順風満帆とは程遠いものでしょうけど、それを前向きに受け止めて打てる手は”出来る限り”打っていかないかんと改めて考える自分でした。逃げるのは”アリ”だけど、それはあくまでも次の前進のための一時的な休憩でありたいものです。
今日は残りの人生の最初の日(Today is the first day of the rest of your life)とはアメリカの薬物中毒者の救護施設の設立者であるディードリッヒと言う人の言葉らしいのですが、ダメ男の自分にも、毎日の小さな前進・改良を喜べる人生を贈って終りを迎えたいものです。
運は「諦めなかった奴」を勝者にするのだと。
2 件のコメント:
>それでもその差を産み出すのは希望を失う人間とそれを保ち続ける人間の差だと感じます。
命のかかった極限状態じゃなくても、投げやりな気持ちで日々を過ごし
自分なんてどうでもいいんだ、とセルフネグレクトみたいになって、
体が不調を訴えていても病院に行って診察や検査、治療を受けなければ
健康を損なってしまうかも知れませんね。
希望というのはどんな場合でも、そのサイズに関係なく人を動かすガソリンだなって最近つくづく思います。
健康の維持に関しては、セルフネグレクト状態のご老人等は”健康を保つ意味”を失っている(もしくは見失っている)方が多くいらっしゃるのだろうな〜なんて推測してしまいます。
もう、何もせんでいいからこのまま行かせてなんて言う身寄りの無いお年寄りを見ていると、私も言葉を失ってしまうことが多いです。
安易な言葉ならかけられるのですが、嘘ついているような気がして・・・。
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