2016年11月21日月曜日

患者さんのお見送り

患者さんが今回たて続けに2日間でお二人亡くなられました。

死因は当然、ここには書けませんが、やはり救えなかった命をお見送りする時は医師としての限界、人が出来る事の限界をいつも考えてしまいます。そして、同時に治療に関する”もしも”のこともいつも考えてしまいます。

そのもしもと言うのは”もし”この患者さんが世界最高の施設で世界最高水準の治療法で金に糸目をつけずに治療されていたらどのような方法論がとられていたのだろうか、それでも延命、もしくは治癒することが出来たのだろうかという事です。

実際には医療行為においては高い水準と言うものは存在しても、絶対に正しい判断というのは存在しません。そんなものは神様の決めることで、例えば100年前の正解とされた治療が現代であれば藻屑レベルのものであるというようなことは実に医学においては普通のことです。それが20年前であろうと同じこと。治療の正着手というのは極端なことを言えば毎月のように変わっている訳で。

それぞれ異なった遺伝的背景を持った患者さんが異なった生育環境で育ち、異なった遺伝子発現の結果、例え双子でも異なったヒトとして育ち、異なった生活を行ったゆえに同じ治療でも異なった反応をすることさえあるわけですからこの差を乗り越えて行くのは最大公約数の治療行為を積み重ねて可能な限りの生理機能の維持回復を祈るしかない事になります。

ここでの”祈る”という言葉は別に宗教とは何も関係なく、人事を尽くして天命を待つという感じでしょうか。内科的な治療の究極はあくまで生体の恒常性維持の昨日を最大限に使うことしか出来ないわけで、それこそ適切な薬の適切な使用、そして可能であればその使用する薬に日進月歩の素敵なものが追加されることを望むしかないのですが・・・。

今日のような日とは反対に、入院時にもう天に召されそうだった方が元気ピンピンになって退院されるのを見送るときほど充実感を味わうときというのは無いですね。

しかし、医師にとっての最大の難敵は”生体寿命の壁”を作り出す時間という存在そのものだなって改めて実感します。

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