2016年9月2日金曜日

”わからない”ということこそが進歩の種

教科書には信ずるべき事実が書いてあって、そこには人類の英知と発見した真理が詰まっているということを信じているとしたらそれは全然違うと私は思います。

少なくとも医学生物学は違います。数学は毎日毎日真理の検証が積み上げられて次々に真理が見つかっているのかもしれませんが、私の属している分野の研究などはもう本当のところは”混沌”というのが正直なところだと思います。いろいろな実験の結果にしても、取り敢えずもっともらしい理屈をつけて説明文を書いてはいますが、実際はその説明文にしても周りの色々な重要な状況や条件をガンガン無視して、見える範囲を物凄く限定した条件で”これこれしてみたらこうでした”という、これこれこうしたらこうでしたという部分だけがかろうじて再現可能なものであったりするわけです。

それでそれを体の中に戻して実験事実に基づいて再現できるか?とか、効果が出るか?とかやってみると、まあ、殆どの場合は、実験者や研究者が思っていたような結果は出てこないわけでして、出てきても、似ているんだけど何だか予想とはかなりずれた方角へ出ちゃった・・・。orz なんてことが大部分なわけです。

しかし、そういったことを職業にするわけですから、研究者というのは(少なくとも自分の知る範囲での生物学の研究者は)実に辛い職業でして、おのれの出す結果を以て論文を書いたりグラントの獲得をしなければならないわけですから、一度大きなものにかけてそれが外れたらダメージは・・・のレベル。大きなラボの主催者や、小さなラボでもヘッドたるものは”夜も眠れぬ”などということになりかねないわけです。

多くの事実、例えば権威ある賞をとったものであっても時代が経つに連れ整合性の取れない実験事実や、実際の体内動態や働きとはちがった形で再認識される物質や分子は枚挙に暇がないほどたくさんあって、教科書に書いてあることは生物学や医学の世界の記述に関してはその次代のその分野の最大公約数的コンセンサスくらいに見ておいたほうがよっぽど道を見誤らないと考えます。

いま教科書に書いてあることを100年後に再検証してみたら・・・。それはそれは後世の人がそれこそ「オイオイ!w」というようなことも書いてあることでしょう。この世界でまず間違いなく正しいのはあくまである状況下で繰り返し観察された事実のみということで、その観察結果に何にする”解釈”の部分はあくまで観察者側の都合くらいに受け取っておいてくださいと進言するのが、普通の方にはよっぽど安心安全な確実な助言だと考えます。

書かれていることと微妙に合わないその事実こそが”大変に重要”であることが殆どで、ノイズとか、よく訳のわからん原因などとして放置されていたその”微妙なズレの原因”の中にこそ大発見のネタが隠されていたというのが多くの多くの場合最終的な結果ですしね。

わからない、出来ないということがあるかぎり、それは人類にとっては喜びのもとであって、謎があるかぎり人間の科学の教科書は書き換えられ、進歩が続いてくれると信じます。

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