それは運動会の「かけっこ」のシステム。平成の頃から皆が差が付かないように手を繋いでゴールするというような所もあるという「競争」という概念を抜き取ったような何かをしているという話がある事は話としては有名でした。
しかし、私がここ数年近所の公立小学校で見かけた運動会はどう見てもただシンプルにごちゃ混ぜの集団を順不同で走らせている感じ。激速の子もいれば鈍足の子もいて、まあこれが私の知っている何時もの運動会でしたので、伝え聞いたタイプの運動会は必ずしも通常のものじゃないんだろうなと思っていました。まあ、伝聞は所詮伝聞です…というのがこれまでの私の認識。
と思っていたら…やっぱりこのお母さんの子供さんが行っている小学校のかけっこでは速さの同じような子達を層別に寄せての競争という話をしていたのでした。だから身近にも有ることは有るんだろうなという程度の話に認識を改めました。
小、中学校の頃は運動会のヒーロー=学校のヒーローでした。正直あんまり勉強は関係なし。学年リレーや全校リレーに出場して、後ろから一気に全員をゴボウ抜きにするような奴は超人扱いで、スーパー・ヒーローとしてヒーローの中でも別格扱いでした。
そういうのを見ていると、幼いながら十分に解る事が一つあります。それは「何かの分野において突出した天賦の才と言えるもの」を与えられた人物が存在するという事。しかし、それが悪い経験なのかというと長い目で見れば逆だと思うんですけどね。個人的には。
詰まるところ、だからこそ己はココではない別の何かで頑張るしかないという話。ベストでなくともベターな何かを探しながら前に進む旅。
しかもコレは大人になれば個人個人の種々の得意分野はあちらこちらに枝分かれしていくのが常で、そこにどういう磨きをかけていくかで人生のバリエーションが生じていくというものじゃないかなと。勿論、得手不得手なんてなかなか判るもんじゃないし、得手に帆揚げて等という状況で人生を謳歌できる人は極々僅かでしょう。それでもみんなえっちらおっちら頑張って生きているし。^^
しかし、話を運動会に戻せば運動会なんちゅうのはそもそも日本人が当たり前と思っているだけの季節の行事で、アメリカは勿論、その他の国もほぼ無くて旧日本軍が一時占領した国々に残っているくらいじゃないんでしょうか。そういう意味では運動会云々という事をあんまり大げさに考えなくてもいいんでしょうね。
とは言え運動会は例えの一つであって、子供達をどういう形であれ競争に晒さなくとも何れは強制的に人生という競争社会の中に自動的に押し出されていき、好むと好まざるとに関係なくその荒波の乗り切り方でいろいろと人生が変わっていく訳なんですが。
時計の針は止められず、結局は自分を取り巻く現実には何時かは向き合わなければならない子供達。大きくなる過程で耐えきれない時は家に引き籠るのでしょうか?私の子供時代には不登校の子供というのは知る限り前項に1人もいなかったもんですが、学校に行かない事情も今の時代とても複雑なんでしょうね。