3.11の地獄からもう6年も経ちました。まだ6年とみるべきか。
アメリカに居てあの日の日本の津波を涙を流しながら見ていた自分を今でも昨日のことの様に思い出します。大学の患者受付エリアのテレビに朝から晩まで流れ続けている日本のテレビの画像に本当にこれがこの世のものなのだろうかと思えるほどの衝撃を受けました。
6年たった今、どれだけの人達が安定した日常と呼べるものを取り返せたのか私には全く見えてきませんし、知る機会もありません。周りの人たちにも東北に親戚がいるという人は意外に少なく、熊本の地震災害の方の情報のほうがよほどリアルに伝わってきます。
目の前でそして自分が全く助けられない場所で家族や知人を失った人達、PTSDを患った人のその後、家をなくした人たちの引き続く仮設住宅での生活などたかが6年という歳月ではあれ程の大災害においては根源的な問題解決というのは本当に程遠いと言うのが実際のように感じます。
震災は地震の二次災害として未曾有の原発災害というものまで産み出してしまい、万一というのが実は万一ではなくていつでも起こりうるレベルの災害であることが再度確認された日、人間が作り出す技術の高さとその脆弱性の両面が一気に晒された日でもあったと思います。
高度に対策が施され、慎重に設計されたはずの安全対策も、十重二十重に安全の囲いを作っていたはずの設備も、設計にはなかったはずの配管、政治や現場のヒューマンエラー、設計の想定をやすやすと超えてくる災害の前には斯くも容易に無力となりえるという例が再度確認されるとともに、安全に絶対というのものはないことを嫌というほど思い知らされた災害ではなかったでしょうか。
東北、熊本と大災害が続きましたがこのようなことは私の住むこの名古屋でも十分というか長いスパンで見ればもっと酷いことが十二分に起きうることです。特に港区や南区、緑区、弥富等では恐らく兆を容易に越える壊滅的な被害が出るのではないかとシロウトの私でも予測できます。
あのあたりは日本の産業の背骨になるような基幹設備や工場が文字通り密集していますから、あそこに前回の大震災クラスの津波が来たら日本の産業はそれこそ最短でも半年は麻痺してしまうのではないかと思うのです。人の死、産業の壊滅的被害、東海圏への大打撃はそれこそ日本の全てを窒息させるのではないでしょうか。
以前緑区の施設の人に「もし大地震が起きて津波が来たらこの辺の人達はどうするんですか?」と聞いた所「死ぬのを覚悟の上で仕事してます。」と半ば諦めたような笑顔で言われて言葉が返せなかった事があります。周りを見回してみてたしかに高い構造の強そうな建造物は高速道路とちょっとしたマンションくらいしか見えませんでしたので、それもまんざら冗談にならないなと暗然とした記憶があります。
天災は忘れた頃に・・・永遠の真理です。大震災から6年。生きている間は毎年忘れることはないでしょう。
2 件のコメント:
「もう6年」なんですよね。
だけど、実感としてはそんなに前の地震だという感じがしません。
仙台に住んでいたことがあって、いまもその当時の友人が何人か仙台在住ですし
震災当時は元彼も仙台に赴任中でした。
知り合いには大きな被害は無く、そのことは良かったなあと心から思うのですが
住んでいたころに遊びに行った海岸や観光地の惨状に言葉もありませんでした。
完全復興にはまだまだ時間がかかりそうですが、被災地以外の私たちも
ずっと忘れずにいたいですね。
あの大都市がもし降下物の影響を受けていたらと考えると本当に恐ろしいです。
帰宅できないエリアがあの風光明媚な土地であったことも慚愧に堪えない事だし、人々の平穏な日常が奪われたことも許されないことですが、もしそれが更に大都市だったら・・・。
いつでも起こりうるこの話が現実にならないことを祈らざるを得ません。
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