2015年5月28日木曜日

患者さんに懇願されて返答に詰まる

今日は回診している時に患者さんからお願いごとをされました。

しかも、その御願いは実にシンプルで、何度も何度も念仏のように私に浴びせられたのでした。
それは「先生、楽死(らくし)させて!御願いします!」というフレーズです。それを私に投げかけ続けたのは90台半ばの心不全のお婆さんでした。認知症はそれほど進んでいない状態の方で、担当医との質疑応答も充分に理解できる方でしたが、私が診察を終えて挨拶をし、部屋を出ていこうとする時に私にこの言葉を投げかけて来たました。

部屋を出ようとするその瞬間、お婆さんの言葉が見えない鎖のように私の足に絡みつき、お婆さんの部屋に留めて離さない事になってしまった様に感じました。両手を擦り合わせて上の言葉を吐きつづけながら何度も「らくし」を懇願されるお婆さんに私は返す言葉もなく、ジッと手を握り返す事しか出来ませんでした。
この時、何か気休めの言葉を投げかけてもその「ウソ」がお婆さんのカッと見開かれた眼に跳ね返されそうで、口から声を出すことが出来ませんでした。orz

このお婆さんの段階の心不全になると、言葉を出すだけでも息が上がります。心臓はホオズキのように膨らみ血液を送り出す指標である駆出率というのが15-20%まで落ち込み、正常下限を大きく切るようなレベルになることも稀では有りません。
そんな苦しい息の元、必死になって何度も何度もそのフレーズを私に投げ返し、激しく息をしながら握りしめた手の先をギュッと握り返してくる命懸けの真剣な懇願に気圧されて、他のスタッフが次の病室に移動したあとも、一人だけ部屋に取り残されてしまいました。

二人だけでじっと目を見つめ合った状態で数分が過ぎましたが、最後には、私からお婆さんに「わかりました。」と言って部屋を出てきました。しかし、何がわかったというのか。言った自分自身が全くわかっていません。そう言った「いい加減な一言」しか出せなかった自分が本当に情けなくなってしまいました。

やっぱり俺には消え行く命と真剣に向き合えるだけの倫理や哲学的ベースというものが「全く」無いなと、改めて感じたのでした。

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2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

人間、最後には誰でも死んでしまうわけですが
どんな人でも「苦しんで死にたくない」という思いは
あるのではないでしょうか。
年齢的には、多分わたしはブログ主さんに近く、
そんなに自分の死を意識するような年齢ではありませんが
痛みにのたうちまわりながら死ぬとか
息が出来なくて苦しくて苦しくて死ぬとか
ものすごい恐怖を味わいながら死ぬとかは
絶対に嫌だなあって思います。
理想の死は「自分が気付かないうちに眠るように死ぬ」ですね、私の場合。
報道される不幸な事件などの被害者の方たちが
どんなに苦しかったか考えると胸が痛くなります。
病気で入院されている方は、苦しみというものが常に身近にあり
自分が苦しみながら死ぬかもしれないという可能性を
より現実的なものとして考えてしまうのでしょう。
そのお婆ちゃんが望み通り(最後には)楽死出来ますようにと思います。
医療がその手助けをしてくれたらと思います。

small G さんのコメント...

コメントありがとうございます。
この「安楽死」と言うのは医療技術が発達すればするほどセンシティブになってしまう問題だと思います。
「生きてもらう」という意味ではどんなクオリティーでろうと、とりあえずは息をしてもらって心臓を動かし続けると言うことは、やろうと思えばかなり無理をすること「も」出来ます。
しかし、この延命というのは御本人の意思が(表明出来)無いときだけに限らず、表明できたとしても医師側はそれに対してどうアクションを取るかということに関しては一つは患者さんとの信頼関係によるところも非常に大きい要素です。
無論、ドクターキリコのような行為は今の日本では法律的には許されるものではありませんので、眠剤や麻薬を使った無痛への試み等が試されることが殆んどですが、果たしてそれらの行為がどれほど「正しい」のか、私にはわかりません。
苦痛を取り除く、と言う行為が患者さんの一生の締めくくりにおいてポジティブなものとして行われることに助力できる事こそがその方の尊厳に繋がっていると思うのですが、言うは易し、、、己に自問自答し悩む毎日です。