当直室で偶然TBSの一時間番組「私の街も戦場だった」を観ました。
番組は佐藤浩市がナレーターとして出演し進行させるもので、太平洋戦争中に日本の各地方都市を戦闘機で銃撃していた戦闘機部隊とその被害者の人達の回想録でした。
第二次大戦末期の米軍における対地攻撃では、銃撃のみならず普通にロケット弾が使用されていたのだなということが良く判るガン・カメラのカラー画像が次々に映し出されていました。
印象的だったのは、私の故郷である「南九州」が米軍の沖縄侵攻戦の次の上陸地点として選ばれていたため、執拗にそれらの攻撃目標になっていたことでした。実は私の親父は小学生の頃、田舎の田んぼ道でグラマン戦闘機に機銃掃射された想い出があるそうで、グラマンに乗っていた戦闘機乗りが赤いスカーフを付けて笑っている顔まで見えたのだそうです。
実際は機銃掃射されたら、当たらないように逃げることなど到底不可能であることはガン・カメラの映像を見ていてよく理解出来ました。要するにもし当たらなかったのであれば、運が良かっただけであり、当たったのであればそれは運が悪かったのだということでしか無いのです。
あの時もし私の親父の小さな体にこの機銃掃射の弾がかすりでもしていたら今の私はこんな糞ブログも書いていないわけですが、、、戦争というのは如何なる人をも正義の名のもとに人殺しにしてしまうのだという事実に暗澹とします。
番組では最後の最後で、東京の中央線のある列車で起きた機銃掃射による大量の殺傷事件の被害者となった女の子とその家族の運命と、アメリカに住んでいた今は亡き加害者たるパイロットの探索に成功(アメリカ公文書館の力を借りて)するのですが、この「占領した硫黄島」から出撃して任務を果たしたパイロットがアメリカに住んでいた自分の妻に宛てた手紙の内容に私は大粒の涙を流してしまいました。
戦争は殺される方だけではなく、殺す方にとってもやはり地獄です。
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