2009年1月5日月曜日

感覚が歳をとらないように

情報を受け入れてそれをどう処理するか、どう感じるかによってその人の考え方というものが定まる。
ひいてはその人がどういう人物なのかは入力された情報に対する出力次第で定義されるものだと思う。だから、カッコイイ男の口からげんなりする様な発言が飛び出してくると当方もそのギャップにがっかりするし、その逆もまた真であるとおもう。時々天才的な人間の伝記とかを本やネットで見ることがあるが、それに伴う風貌を持っている人もいればまったくそうでない人物もいて、要するに外観だけでは中身は判別しかねるというのが本当のところだろう。実際、写真だけ見てもこのおじさんが街中を歩いていても誰も大天才だとは思わんだろうなとかいう人がいるのは事実。しかし良い意味で風格というものを備えた人がいるのも確かで、風貌と眼光に凄みを持った人がいて、何か知らんが威圧感を感じるような人物がいるのも本当だと思う。さて、話がそれたので元に戻ると、この頃やたらと感じる事の一つに他の人が書いた文章、たとえば記事やブログ、それに単行本などソースは色々あるが、その内容でその人の年齢を推定できないものが沢山あるという事。そんなの当たり前といわれればそれまでなのだが、実年齢が高校生くらいの人物が書いているブログなどで、既にその記述者の物の見方が中年のように枯れてシニカルになってしまっているものがあったり、その逆にこのオバサン、脳内年齢は10歳くらいでしょうかというようなものもある。本や記事でも同様で、やはり人の精神年齢は肉体の成長とは関係なく進んだり遅れたりするというのが良く判ります。こんなことを最近気にするようになったのは、自分がこうやって日々の記録としてブログをコリコリ書いていると、以前自分で書いたもののコンテンツを自分自身で読んで、言い足りないとか、逆にこれは言いすぎだなとか言うような文章を拾う事が最近頻繁にあるからです。まあ、練れていない文章をこうやって記録のために上げるのですから、自分でその足りないところに気付くと言う意味では好いのでしょうが。物の見方が一元的になっていないか、特に価値判断の基準が何らかの極端な「イズム」に染まっていないかを確かめる一助になるのは良いことだと思います。無論、自分の眼鏡をかけて自分が書いたものを読み直すわけですから、そこには自ずと限界というものが存在するわけですが、それでも自分の思っていることを「これについてはこう考える、これについてはこう思う」と書き連ねるのは面白い作業だと思いました。中学生の頃にこのようなブログのシステムがあったら自分の汚い字を読むのが嫌いで、計算式以外に字を書くことの少なかった自分にはもっと良い文章修行になったのだと思うのですけれど、、、。
やはり一番に考えているのは物の見方、捕らえ方が固まってしまっていないかということです。一般的に言えば、人の言う事を聞かなくなり、自分の世界に閉じこもってしまった柔軟性ゼロの老人(渡辺恒雄のようなピエロ)になっていないか自分を戒めるためには恥ずかしい文章でも記録として残して自分の考え方の変遷を見るのは良いのかと考える今日この頃です。

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