何か新しい事を人に教えるのは難しい。
教える方にとって最も難しい事態は、その教わる側の理解の度合いを教える側が理解出来ていない(出来ない)ときに発生するのではないかと思う。大学生に教授が教えるのは大学生側が必死に理解するように勉強することが前提なのでこちら側は比較的難しことでも、それなりの解説を加えるだけでドンドン先に進めることができるが、小学生に同じことをしても「わからない」と言われて、教師側が「それではもう終わりです」という訳にもいくまい。それでは教師失格と言われてしまう。だから、小学校の先生は子どもがどこを理解出来ていないかを解るレベルまで解きほぐす能力のある先生が教えることが巧い良い先生と言われるのではないかと思う。
年齢が上がり教える内容が高度になればなるほど習う側の自助努力の度合いが膨らんでくるのは不思議ですが、何となくそれが教育の常態だと思う。だから私は幼稚園の教育が本来最も難しいと常々思っているんですけどね。
小さな頃から何らかのきっかけ(親なり、個性なり)で、自分の力で学習してきたいわゆるself learnerという子供を自分のクラスに持つことが出来れば(それは教師冥利につきるラッキーでしょうが)、もうその時点でその子どもが将来の自分の生き方というのを学んでいるのだという意味では、教師の子供に対する仕事は半ば終わったようなものだと思います。
教えていて思うのは、学校で出される勉強はできても自分から問題を見つけ出す、もしくは教わった中から疑問点を探し出す訓練というのは最も時間のかかる学習ではないかなと。大学で教えていると、アジア系の(第1世代から1・5世代くらいの)学生は問題を解くのはスピーディーにこなすんですが、与えられた論文から問題点を探し出すのが、アメリカ国内で純粋に学習してきた学生より苦手な気がします。論文に書いてあることを鵜呑みにしやすい学生もバックグラウンドに関わらずいわゆる「学校の勉強のできる子」に多い気がします。
科学なんてエラーと例外や矛盾点の修正の歴史なんですけど、そんなのをいちいち気にしていたら日本の有名大学なんかは行けませんか、、、。授業で教えていると、論文をテキストと勘違いしているようなデキル子があまりにも多い気がしたので、こんなことを書いてしまいました。
2 件のコメント:
出来る子が多いのは楽なのではないでしょうか?
でも、そうして自分で学べるようになるには若いときが大切ですよね。
なぜ夏休みの宿題って最終日にドタバタしていたのでしょうか(^^;)。
sammyさん、
夏休みの宿題、最終日ならまだしも始業式の日、帰ってきて未だ工作していた私には耳の痛い話です。(笑)
まあ、医者や歯医者には出来る子がなる事が多いです。書いてあることを逐次解釈して素直に実行できるという能力が多くの場面では重要なんでそれはそれで良いですし、ただ「教える」というだけならそれは楽なんですが、、、。私はその先のもう一歩踏み込んだところで学生と討論したいと思っています。
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