2010年10月19日火曜日

日本とアメリカの差

アメリカで教育を受ければ良かったとこの歳になってよく後悔する。
日本に居ると、アメリカの教育のことがいろいろネガティブに報道されることが多く、私もそんなもんかいな等と思っていたが、それは例によって例のごとくマスゴミ君達のセンセーショナリズムそのものでしかなかった。
下を見れば限がないというのはどんな場合にも競争という言葉がある限り当てはまるものだが、要するに影の部分ばかりが報道されている。多分日本に居ると大きく勘違いされるひとが多いと思うのだが、少なくとも私が経験した二つの州の教育システムというのは出来る子を上にずんずん引き上げて、意欲のある子をサーチし続けるという意味ではまさに磁石が鉄をくっつけるように、レーダーが目標物を探知するように探し続けるようになっている。
小学生の頃特に四年生になるくらいまでは学校の授業の易しすぎることに子供ながら辟易していた思い出がある。確かに反復練習は大切なのだろうが、どう考えても自分の当時できることのレベルからしたら易しすぎたと今でも思う。もしこっちに居たなら、、、。それを考えると少々がっくりきてしまいます。
機会平等、結果も平等を求めると強引にでも型にはめ込むのが日本式なのかも知れませんが、やはり私的には現実は機会不平等、結果は当然のごとく「異なる」ものだと思います。だからといってそれは結果の不平等とは言わないでしょう。結果は努力や才覚に合わせて平等に出てきます。
日教組的な馬鹿はこの点を大いに勘違いしてるようで、結果まで平等を求めるならそれは努力を人に要請しない社会になります。これが世界中で大崩壊していった共産主義なのですから何とかに付ける薬はないということですか。(笑)
勘違いする人もいるかと思いますが、学校の勉強が出来ないからと言ってそれが別にいつでもネガティブになるわけでもなく、学校側がこの子は未だ反復が必要といえば子供は同じ学年に「小学校であっても」普通に落第します。ですから、時には背格好の違うお大きな小学生が居たりするわけですが、、、。親も結果を見せつけられればぐうの音も出ませんし。
上にも下にも平等というのはこういう事ではないでしょうかね。無論、学校卒業後の努力は人生においては遥かに重要なわけで、世の中に出れば、様々な分野で自分よりできるものを持った人達がうじゃうじゃいるという単純な事実に気づくわけです。
そうやって自分の出来る分野得意な分野で世の中の役に立つ人間になることを目指すように仕向けることが教育のねらいであるべきではないかと思うのですが、どうも日本ではそういうことを教わりませんでした。

たとえ公教育であれ、下を見ても限がなく、上を見ても限がない。
実にアメリカしています。

0 件のコメント: